670.避難者の憂鬱
灰色の雲がうっすら朱に染まる頃、やっと南の神殿に辿り着いた。
道に迷うことはなかったが、思った以上に距離があり、足が棒のようだ。疲れ切ったサロートカはすっかり無口になっていた。
「どうします? どこかその辺で休憩しますか? その間に届けて来ますが……」
「いえ、私も……入っていいなら、ご一緒させてもらってもいいですか?」
「私の許可なんて要りませんよ。女神様は拒んだりなさいませんから」
時間が遅いせいか、前庭は閑散としている。肩に食い込む荷物を背負い直し、針子の少女は呪医と共に神殿に足を踏み入れた。
セプテントリオーは入口の台座から【魔力の水晶】を一粒取ったが、サロートカは手を触れず、そっと目を逸らした。前の人に続いて、広く長い通路を歩く。
壁には神話の場面を描いた浮彫が施され、サロートカは本を読むように壁をじっくり見ながら足を進めた。
呪医の手の中で冷たい【水晶】に体温と魔力が移る。
仄暗い廊下に神官が【灯】を点しながら歩いて来た。
「すみません。こちらにこの方が避難していらっしゃるとお伺いしたのですが……」
封筒の宛名を見せると、年配の神官は小さく頷いた。
「人数が多いので、後で確認します。お参りを終えられましたら、集会所へお越し下さい。神殿の右手です」
「ありがとうございます」
呪医セプテントリオーが礼を言うと、サロートカも頭を下げた。壁の灯明台に【灯】を唱える声が遠ざかるのを聞きながら、前の者に続いた。
神殿の最奥は湖から引き込まれた水が巡り、その水路は魔法陣に組込まれている。一段高くなったすり鉢状の祭壇もその一部で、奉納された【魔力の水晶】の力を集め、大神殿に安置された青琩……湖の女神パニセア・ユニ・フローラの【魔道士の涙】に送る。青琩は今も旱魃の龍に対抗し、水を作り続けていた。
呪医セプテントリオーも、魔力を宿して淡く輝く【魔力の水晶】を捧げて跪く。サロートカがその隣に跪いた。
……パニセア・ユニ・フローラ様、我らが御祖よ。涙の畔に平和と安寧の日々が戻りますよう、良き縁が結ばれ諍いが鎮まりますよう、我ら水の同胞全てをお守り下さい。
神殿を出ると、すっかり日が暮れていた。
先に宿を取っておけばよかった、と少し後悔したが、【灯】を点して集会場へ行く。
夕餉の匂いに空腹を思い出し、隣を歩くサロートカを見た。
「あっ、今、おなか鳴ったの聞こえちゃいました?」
「いえ、まさかこんなに遠いとは思わなくて、すみません」
「いえいえいえいえ、遠いのはセンセイのせいじゃありませんから」
集会所の前で、先程の神官と陸の民の男女が待っていた。
「こんばんは。お食事時に申し訳ありません」
「こちらこそ、わざわざご足労いただき恐れ入ります」
神官はそう言って、呪医の手許に視線を向けた。
「初めまして。私はゼルノー市立中央市民病院の呪医です。王都へ行くついでに、ノージ市に避難した方からお手紙を預かってきました」
差出人の呼称を告げると、夫婦らしき男女の顔が綻んだ。
宛名が男性名なので、夫に渡す。彼は筆跡を見て差出人の呼称を呟き、封筒を押し戴いた。妻も涙混じりに何度も礼を重ねる。
ひとつ肩の荷が降り、ホッとした途端、盛大に腹が鳴った。遣り取りを見守っていた神官が苦笑する。
「大したおもてなしはできませんが、ご一緒にいかがですか?」
恥ずかしさを咳払いで誤魔化して聞く。
「よろしいんですか?」
「勿論ですとも。スープはまだ充分ありますから」
サロートカを見ると、瞳を輝かせて何度も頷いていた。
手前に長机とパイプ椅子が並べられ、避難民が食事をしている。奥の半分は段ボールで間仕切りされ、生活スペースになっているようだ。
呪医と針子もスープ皿を受け取り、夫婦と同じ席に着いた。
魚のすり身団子と野菜がじっくり煮込まれ、ぬくもりと滋養に身体が芯から温まる。質素だが具が多く、栄養は充分だろう。
「少し前までは、もっと居たんですけどね。腥風樹の件でアミトスチグマまで避難した人が結構多くて、残ったのは三分の一くらいなんですよ」
「それまでは、お庭で食べてましたからね」
「どこも大変なのですね」
呪医は夫婦の話に匙を持つ手が止まった。サロートカは食べるのに忙しく、話に口を挟まない。
「呪医は王都にご親戚がいらっしゃるんですか?」
「一応……遠縁が居る筈ですが、血筋が遠過ぎてほぼ他人ですし、子供の頃に一度会ったきりなので、顔も呼称も憶えていません。それに、内乱でどうなったのかも……」
「あっ、これはとんだことを……」
恐縮する夫に妻が厳しい目を向ける。
呪医セプテントリオーは夫婦に微笑を向けて取り成した。
「憶えていないくらい遠い人なのでお気になさらず。今回は、人伝に全く別の方面から手伝いを頼まれて行くところなのです」
「そうなんですか。このご時世、お医者さんは引く手数多でしょうな」
「そうよねぇ。王都には今、私らみたいに焼け出された人だけじゃなくて、腥風樹から逃げて来たラクリマリス人も大勢居るそうですし……」
夫婦揃って顔を曇らせる。
「お二人は、王都やアミトスチグマには行かれないのですか?」
「土地勘がないから跳べませんし、折角ここで働き口をみつけたのに……」
「王都で人が余ってたら、きっと仕事はみつからないでしょう。それに、クーデターから逃げて来た人も居て、大変らしいですから」
夫婦の話に周囲の人々も頷いた。
食べ終えたサロートカが、こっそり溜め息を漏らす。
二人も集会所に泊めてもらい、翌朝早くに街を後にした。




