669.預かった手紙
呪医セプテントリオーと針子のサロートカはノージ市を発ち、ネーニア島東岸に沿って【跳躍】で南下していた。
「早く伝えた方がいいでしょうから、この街には入らずに通過しようと思いますが、如何ですか?」
「はい。私は全然……大丈夫です。センセイは休憩しなくて大丈夫ですか?」
「まだ大丈夫ですよ」
ノージ市に逃れていたゼルノー市民から、他に逃れた者宛の手紙を預かっている。受取人が居る所なら、小さな漁村にも立ち寄るが、そうでなければ先へ進んだ。
漁村で魚を干していた女性が、怪訝な顔で封筒を受け取る。宛名の筆跡に気付き、目頭を押さえた。
「わざわざありがとうございます。ちょっと待って下さいね」
すぐ近くの家に駆け込み、掌大の紙袋を持って戻ってきた。
「お礼、これくらいしかなくてすみません」
「いえいえ、通り道のついでですから……」
「いえいえ、それじゃ私の気が済みませんから」
結局、受け取ることになったのは、ドライフルーツだった。焼け出された身には、これとても苦しい筈だ。
「いえ、もう、私の気持ちですから……」
「話が終わったんなら、さっさと手伝っとくれ!」
一緒に作業していた老婆に呼ばれ、女性は二人に一礼して干し網へ駆けて行った。
街で住所のわからない者に届けるのは難しいと思ったが、そうでもなかった。
「役場で聞いてみな。ネモラリスの難民だったら、役所が管理してるよ」
港で教えられ、道々、役所の場所を聞いて歩き、すんなり辿り着けた。案内係に聞いて窓口へ行くと、問合せの書類を記入するよう言われた。
「私も焼け出されて、住所不定なのですが……」
「どこの誰だかわかればいいので、元の住所で結構ですよ」
これにはセプテントリオーも面食らったが、素直に従う。預かった手紙には受取人の詳しい住所はなく、わかっているのはゼルノー市から一旦ノージ市へ逃れ、更に南下してこの街に居るらしいことと、呼称だけだ。
役人は空欄の多い書類を受け取ると、奥に引っ込み、慣れた手つきで台帳をめくった。
……住所不定……か。
呪医セプテントリオーは、改めて自身の境遇を確認して気持ちが沈んだ。そう言えば、市民証は自宅に置いたままだった。あれも再発行しなければならないが、ネモラリス共和国内のどの役所が、まだ機能しているのか、クーデターが発生した今となっては、調べるだけでも大変そうだ。
「その人は、南神殿に避難しています。女神様の神殿ですが、ご存知ですか?」
「いえ……何分、ここは初めてなものですから……」
旧王国時代には何度か訪れたが、半世紀の内乱を経て、街の様子はすっかり変わってしまった。
役人は、メモ用紙に簡単な地図を描いてくれた。
「あなたも、早く落ち着き先がみつかるといいですね」
「……ありがとうございます」
役人の何気ない一言が身に沁みた。
役所から一歩外へ出た途端、針子のサロートカが伸びをした。呪医セプテントリオーもふと心が緩み、緊張していたことに気付く。
「疲れましたか?」
「い、いえ! 私、何もしてませんし、あ、あの、これは……その、役所って初めてなんで、緊張したって言うか、その……もっと怖いとこだと思ってたんで、ホッとしたって言うか……」
少女のこれまでの暮らしに思い到り、呪医セプテントリオーはどんな顔をすればいいかわからなくなって、メモ用紙の地図に目を向けた。
「私も、役所の雰囲気は苦手ですよ。……日が暮れないうちに行きましょう」
「地図見ただけじゃ、魔法で行けないんですね?」
「知っていても、街の中には大抵、結界があって、許可された場所にしか跳べませんよ」
「あ、そうでした。遠いんですか?」
「さあ……? この地図では距離がわかりませんからね」
サロートカは呪医の手許を覗き、周囲を見回した。
役所は大通りに面し、この道をまっすぐ行けばいいらしい。
北端のノージ市よりも人通りが多く、車道を行き交うトラックも多かった。
「この国でも、こんなにトラック走ってるんですね」
「そうですね。ナマモノは【無尽袋】で運べませんからね」
「ムジンブクロ……?」
「見た目の容量よりたくさん入る魔法の袋です。一回で術が切れるので、使い捨てなんですけどね」
「へぇー……でも、便利でいいですねぇ」
キルクルス教徒の少女の感想に呪医セプテントリオーは少し驚いたが、何も言わないでおいた。ここでは人目がある。
サロートカは、行き先が湖の女神パニセア・ユニ・フローラの神殿だとわかっても、イヤな顔ひとつせずついて来る。
……信仰の違いを知るいい機会だと思っているのか?
「私たちは普段、ラキュス湖に直接祈りを捧げているのですよ」
「えっ? そうなんですか? じゃあ、神殿にはいつ……?」
辺りを憚り、サロートカが声を潜めた。
「冠婚葬祭や子供に何かお祝いがある時、それに、困り事がある時ですね」
「日曜礼拝とかないんですか?」
「お祭以外で、みんなが決まった日に行くことはありませんね」
「そうなんですか」
日が傾きつつある曇天の下を急ぎつつ、小声で参拝方法を説明する。
サロートカが不安を囁いた。
「私、魔力も、その水晶も持ってないんですけど、神殿に入っちゃってもいいんですか?」
「女神様の神殿は、水の縁で結ばれた全ての存在に解放されています。魔物など、この世ならざるモノ以外は拒まれませんよ」
異教徒の少女の目が驚きと疑問に見開かれる。呪医は頷いて祈りの言葉を口にした。
「湖上に雲立ち雨注ぎ、大地を潤す。
木々は緑に麦実り、地を巡る河は湖へと還る。
すべて ひとしい ひとつの水よ。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
水の縁巡り、守り給え、幸い給え」
「みんな……仲間……?」
「そうです」
サロートカが考え事をする風に黙ったので、呪医はそれ以上言わず、神殿へ急いだ。
信号機はなく、交差点に立った警察官が手旗と警笛で交通整理している。ゼルノー市では、交通量の多い通りで監視も兼ねて信号機の補助をしていた。
「トラックはあるのに、信号はないんですね?」
「そうですね。確か、電気が外国人の多い街のホテルや飲食店などの自家発電くらいしかないからだ、と聞いたことがあります」
「そうなんですか? じゃあ、魔法使えない人は不便じゃありませんか?」
「力なき民でも、呪文を知っていれば、呪符や魔法の道具、【魔力の水晶】などで何とかなりますからね。……ラクリマリスは、ネモラリスよりも力なき民が少ないから、それで間に合うのでしょう」
呪医セプテントリオーは、ファーキルを思い出した。
次の大きな街は、孤児となった少年の故郷グロム市だ。
……移動販売店のみんなは、まだカルダフストヴォー市に居るだろうか。それとも、トラックを諦めてフィアールカさんに運んでもらっただろうか。
あの日の苦い思いが胸に満ちたが、針子の少女に悟られぬよう、表情を殺した。




