666.街道の続きを
腥風樹は肥えた土を求め、根を引き抜いて移動する。
アーテル軍が種子を幾つ蒔き、ラクリマリス軍がその何割を駆除できたのか。
リストヴァー自治区で手に入る限られた情報だけでは、何とも言えなかった。
最悪の場合、一本でも見落としがあれば、次の春には花を咲かせ、秋には種子がバラまかれる。そうなれば、また千年の戦いが幕を開けるだろう。
……アーテルの目的は、腥風樹の毒で魔哮砲をやっつけるだけじゃなくて、ネモラリスとラクリマリスの弱体化もあるのかしらね。
仕立屋の店長クフシーンカは、区長たちに見せてもらったインターネットのニュースを忘れない内に書き留め、溜め息を吐いた。
一人になった自宅兼店舗はガランとしている。寄付や生活再建事業の報酬として手放し、殆ど物が残っていなかった。
ショールを羽織った肩をさすり、中庭で採った香草のお茶を啜る。
腥風樹が移動できるのは、土の地面だけだ。ツマーンの森を移動し、クブルム山脈の北側まで侵入されたら自治区にどれだけ被害が出るか、想像したくもなかった。
アスファルトで舗装された道は通れないが、落ち葉や花粉などにも毒があり、それらは風に乗って飛んで来る。西の農村地帯が汚染されてしまえば、自治区を放棄しなければならないだろう。
……やっと、少し落ち着いてきたところなのに。
クフシーンカは皺深い両手でカップを包み、お茶の香気を胸いっぱいに吸い込んだ。薄い胸を満たした芳香を細くゆっくり吐き出す。
ネミュス解放軍は、神政復古を目指してクーデターを起こした。
ネモラリスの共和制を廃したい彼らは、国会議事堂と議員宿舎を襲撃したらしい。国会議員の大部分は、もう生きていないかもしれない。
レーチカ市まで逃げ果せられた議員と官僚が、第二政府を建てたが、そちらが今どんな状況なのか、自治区には全く情報が入ってこなかった。
今のところ、戦闘は首都クレーヴェルに限られているが、ネミュス解放軍は放送局を占拠し、ネモラリス全土に向けて主張を放送し続けている。いや、昔の電波塔が残っていれば、ラクリマリス領やアーテル領にも届く。
ネミュス解放軍に賛同する者が、首都の外でもまとまれば、内戦の炎はネーニア島にも広がるだろう。
アーテル本土を叩かない政府軍に業を煮やしたネモラリス人の有志は、これまで個別にゲリラ活動を行っていたが、強力な指導者が現れたのか、つい最近、ネモラリス憂撃隊として声明を発表した。
ネモラリス憂撃隊は、かなりの場数を踏んだ武装ゲリラだ。ネミュス解放軍に賛同すれば、キルクルス教徒が住まうリストヴァー自治区も攻撃対象になるだろう。
彼らがアーテル本土への攻撃に専念したとしても、いつ、ネミュス解放軍の賛同者が自治区に押し寄せてくるかわからない。
一刻の猶予もなかった。
……生きてさえいれば、その先、どこでどうやって生きて行くかは、後でどうとでもなるのよ。
クフシーンカは杖に縋って立ち上がった。
「……そうですね。我々にできることは限られていますが、打てる手は全て打って、それから、次のことを考えた方がいいでしょうね」
東地区教会の司祭が重々しく頷き、溜め息と共に言葉を発する。
クフシーンカを送ってきた新聞屋の亭主も頷き、香草茶のカップを置いて聞いた。
「俺らに打てる手ってなぁ、どんなモンがありますんで?」
「クブルム山脈の旧街道の発掘ですわね。少なくとも、腥風樹は止められます」
クフシーンカが言うと、新聞屋が驚いて老女を見た。
司祭が補足する。
「腥風樹は土の上しか移動できませんから、土砂を除けて街道の敷石を露出させれば、そこで止められます」
「そうなんですかい。そりゃ、一石二鳥だ。あのお医者のセンセイがゾーラタ区の農家が反対側から掘ってたっつってたんで、もうちょっとですぜ」
クフシーンカは新聞屋の失言にギョッとしたが、司祭は聞き流して話を進めてくれた。
「道の確保と腥風樹からの防衛、薪拾い、肥料の回収……実現できれば心強いですが、これから日がどんどん短くなります」
「で、移動の距離は伸びちまう。ぐずぐずしてられませんな」
新聞屋が腰を上げる。
クフシーンカは慌てて引き留めた。
「でも、私にはもう井戸水くらいしか報酬が……」
「なぁに、命懸ってるし、薪拾いもできるんだ。職にあぶれた連中に声掛けりゃ、タダでも動く奴ぁ居るでしょう」
新聞屋は二カッと笑って応接室を出て行った。
「私も、少し登ってみたのですけれど、山道の途中に広場がありましたの。あそこにテントか何か置ければ、中継地点にできて作業が捗ると思うんですけれど……」
「では、工場にブルーシートとロープの提供をお願いしてみましょう」
今も、主に職のない男性たちが、薪拾いで旧街道へ登っていた。
万が一、日没前に自治区へ戻れずとも、寒さからは守られるだろう。旧街道の【魔除け】を突破し得る強い魔物や魔獣がでるかどうかは、神のみぞ知る。
広場の片側に避難用テント、もう一方を薪や肥料袋の仮置き場にすれば、いちいち麓の広場まで置きに戻るより効率よく動ける。
「では、私は資材代として、店舗のソファを一脚、ご提供しますわ」
「よろしいのですか?」
「えぇ。サロートカが店を継ぐ時には、あのコが自分で調達するでしょうから」
クフシーンカは、道を掘り起こしに行けない我が身の老いがもどかしかったが、今は若い者に託すしかない。
一刻も早く、敷石一枚分でも二枚分でも、掘り出して欲しかった。
☆千年の戦い……「382.腥風樹の被害」参照
☆新聞屋の失言……「552.古新聞を乞う」~「562.遠回りな連絡」参照




