665.揺れる気持ち
「……そうなの」
夕食後、数日振りにこの部屋で二人きりになり、大伯母カリンドゥラ……歌手のニプトラ・ネウマエは形のいい眉を少し顰めた。
机には裁縫道具ではなくティーセットが並び、蜂蜜入りの紅茶が湯気を立てている。
カリンドゥラは、立ち昇っては消えてゆく湯気を見詰めて言った。
「今の状況だと、首都は勿論だけど、レーチカの家に帰るのも当分、難しくなりそうね」
「そんなに……よくないんですか?」
みんなが心配だが、できることが何もないのが歯痒い。
「朝と夕方に停戦時間が設けられてて、車を持ってる人たちがその時間帯に首都を脱出するから、道はとても混んでるそうよ」
移動販売店プラエテルミッサは、国営放送からトラックを拝借している。
クルィーロとアマナは、首都に父親が居ると言っていたが、他のみんなは首都を出ただろうか。あの兄妹は無事に父親と再会できて、安全な場所に居るだろうか。
……ここでどんなに心配したって、みんながどこでどうしてるか、わかるワケないし、状況だって……変わらないのよ。
アミエーラは滲む涙が溢れないように堪え、紅茶を一口含んだ。蜂蜜のやさしい甘さが、クフシーンカ店長を思い出させた。
蜂蜜をたっぷりつけたパンは、アミエーラに「おいしいもの」の存在を教えてくれた。仕立屋で働いている間、昼食は店長が作ってくれたが、高齢の店長に合わせて薄味で野菜をくたくたに煮込んだスープなどが多かった。勿論、それでもバラック街で手に入る食べ物よりずっと美味しくて滋養がある。店長に感謝しない日はなかった。
クフシーンカ店長は、針子のアミエーラに根気よく仕事を教え、いつもやさしくしてくれた。
……店長さんだったら、どうするかな?
みんなを助ける力も守る力も持たないアミエーラが、ネモラリスの首都に行ったところで、何の役にも立てない。それどころか、みんなを心配させるだけだ。
土地勘のある大伯母カリンドゥラなら、【跳躍】でみんなを助けられるかもしれないが、首都のどこに居るのかわからなければ、どうにもできない。いや、もうトラックで首都を出ているかもしれないのだ。
……ここで繕い物とかしてても何も変わらないけど、アミトスチグマであのコたちの衣裳を作ったって、同じじゃないの?
「衣裳を着るコたちがどんなコか、フィアールカさんから聞いたかしら?」
「いいえ。……でも、少し知ってます」
アミエーラはティーカップを置いて、正面のカリンドゥラに視線を合わせた。意外そうな大伯母に説明する。
「ランテルナ島に居る時、ラジオで歌が流れてました。……キルクルス教の聖歌をヘンな感じにアレンジして」
「イヤだったの?」
改めて問われると、はっきり肯定し難かった。
今はもう関係ないハズなのだ。
答えられないでいると、大伯母カリンドゥラは自分のカップに紅茶のおかわりを淹れた。向かいのカップにまだ半分以上残っているのを見て、ティーポットを置く。
「それと、ファーキルさんにインターネットの動画で、コンサートも見せてもらいました。キルクルス教の教義の矛盾に気が付いて、信仰を捨てて、歌手も引退するって言って、お客さんが大騒ぎになって……」
「そう。それも知ってるのね。今はまだ、はっきりフラクシヌス教に改宗するとは言っていないけれど……いえ、何も信じられないのかもしれないけれど、平和の為に歌っているわ。アルトン・ガザ大陸に居るアーテル人にインターネットで平和を呼び掛けたり……」
……アルトン・ガザ? あぁ、本国は規制があって見られないってファーキル君、言ってたっけ?
アルトン・ガザ大陸の北部には、聖者キルクルス・ラクテウスの聖地があり、バンクシア共和国には大聖堂がある。アーテル人が巡礼や留学、仕事などで大勢訪れる場所だ。
カリンドゥラは蜂蜜を入れずに一口飲み、静かにカップを置いた。
「向こうには、リストヴァー自治区の国会議員が居るから、何か困ったコトがあれば、その先生に相談するといいわ」
「ラクエウス先生、アミトスチグマにいらっしゃるんですか」
思いがけず知り合いの居所がわかり、声が弾む。カリンドゥラは少し驚いた顔で頷いた。
「彼を知ってるの?」
「はい。店長さんの弟さんですよね? 何回か、お会いしたことがあります」
「そう。なら、安心ね。どう? 行けそう?」
問われたアミエーラの目に紙袋が映った。部屋の隅に五つ。全て、朝食前に預かった繕い物だ。カリンドゥラが視線を辿って振り向いた。
「……頼まれ物が気になるの?」
「アミトスチグマに行って、一人でイチから四人分の衣裳を仕立てるのって、すごく時間が掛かるから……」
「そう。引き受けたからには、繕い物もちゃんとしたいのね?」
アミエーラは頷いた。
……私、どうしたいのかな?
これも気になるのは本当だが、あの歌手のコたちの衣裳を引き受けたいのか、イヤなのか。気持ちが定まらなかった。
ラクエウス議員の無事は動画で知っていたが、本人に会ってクフシーンカ店長が大火に遭わず、無事でいると伝えたい気持ちはある。
アミトスチグマに行くなら、やはり衣裳を作らなければならない。
「わかったわ。相談してみるね。……これ、何日くらいでできそう?」
「えーっと……四、五日……あ、大急ぎで頑張れば、三日くらいで終われる……かも……です」
「そう。無理しなくていいのよ。みんなには私から話しておくから」
翌日、夕飯前にやってきた運び屋フィアールカは、「五日後に迎えに来るから、これ以上こっちで引き受けないでね」と告げて、あっという間に行ってしまった。
☆蜂蜜をたっぷりつけたパン……「090.恵まれた境遇」参照
☆ランテルナ島に居る時、ラジオで歌が流れて……「451.聖歌アレンジ」「435.排除すべき敵」参照
☆インターネットの動画で、コンサート……「429.諜報員に託す」「430.大混乱の動画」「431.統計が示す姿」「518.いつもと違う」参照
☆ラクエウス議員の無事は動画で知っていた……「496.動画での告発」「497.協力の呼掛け」参照




