656.首都を抜ける
窓を閉めて前を向くと、溜め息が漏れた。
車列は順調に流れているが、土地勘がないのでどこへ向かっているのかわからない。時々流れる標識の地名を記憶に刻む。
「湖の民なんぞと一緒に居たのか」
父の苦い声で隣を見る。ハンドルを握り、前方を注視する父の顔からは、先程までの愛想笑いが消えていた。
「アガート病院の薬師さんだよ。あの人が居なきゃ、とっくに焼け死んでた」
「勝手に出て行ったりするからだ。心配したんだぞ。どこへ行ってたんだ?」
苛立たしげな父から目を逸らし、フロントガラスの向こうへ視線を向けた。目的を伏せ、行動だけを語る。
「ミエーチ区に行ってたんだ」
「何しに行ったんだ?」
「ベリョーザさんちの様子を見に……」
父は大きく息を吐いたが、バックミラー越しの目許は表情が和らいでいた。
「車はなかったけど……星の道義勇軍が家を乗っ取ってて、警察と治安部隊が突入してた」
「悪かったよ。お前には作戦用の物資を置く話はしたが、却って心配させると思って、誰の家に置くか詳しい話をしなかったんだ」
ロークは明け渡す家の目印は教えてもらっていた。
父たちは余計な気を回したようだが、ベリョーザの家を星の道義勇軍が明け渡すことは、母親同士が話しているのを立ち聞きして知っていた。
「あの日は夜明け前に出発してもらったから、挨拶できなかったんだ。どうせトポリ港で合流すると思ってな」
「中途半端な話じゃ、余計に心配になるんだよ。俺ももう、小さな子供じゃないんだ。隠し事はなしにしてもらいたいんだけど?」
「……そうか。そうだな。お前にこんなに勇気と行動力があったなんて、知らなかったよ。それでこそディアファネス家の跡取りだ」
車が角を曲がった。
西か北西の門に向かうようだ。
青い標識の文字を目に焼き付ける。
「レーチカに行く道は、どこも渋滞で塞がってるって聞いたんだけど、どこ通って行くんだ?」
「ん? あぁ、一旦、北西の門を出て農道を使って北門の方へ行く」
「北門? 戦闘が激しくて民間人にも死傷者が出たって、ラジオで……」
ロークは驚いて父を見たが、前を向いたまま表情を変えない。
「防壁の中……市街地はそうだな。外の道は無傷だ。北門は封鎖されてるから、車は滅多に通らない。時々、東側の門を強行突破した車が流れてくるくらいだ」
「レーチカに行くんじゃなかったのか?」
「行くぞ。平野の農村がある辺り……って言ってわかるか? 首都の北側」
「んー……後で地図見せてよ」
「あぁ。農村地帯を抜けて、ウーガリ山脈の裾野の森を突っ切る」
「えぇッ? 森? 魔獣とか……」
父はロークの反応を面白がり、喉の奥で笑った。
「山裾に地脈の力を使った道がある。ウーガリ古道と言うそうだが、道幅が狭いから、自動車が普及してからは忘れ去られた道だ。地元の農家の人が軽トラで通るくらいで、空いてるぞ」
「……そうなんだ?」
どうにかしてレノ店長たちにこの情報を伝えたいが、手段がないのがもどかしい。
……クルィーロさんのお父さんの会社か社宅の電話番号、教えてもらえばよかったな。
ラジオでは、電話線が物理的に切られて、放送局の電話は繋がらないと言っていた。それを聞いて、電話は使えないと思い込んでしまった。
だが、少なくとも昨日までは、帰還難民センターと会社の回線が生きていたから、センターの職員はクルィーロの父と連絡をつけられたのだ。
市外通話はまた別かもしれないが、思い込みで可能性を失った自分の迂闊さを呪った。
「腹減ったろう。サンドイッチ、食べなさい」
父がダッシュボードの紙袋に顎をしゃくる。
空腹感はなかったが、取敢えず手に取った。意外な重さに慌てて手を添える。瓶入りの野菜ジュースも入っていた。
「ベリョーザちゃんが今朝、ロークの為に早起きして、張り切って作ってたぞ」
「……食べる?」
「いや、父さんは朝食を済ませて来た。遠慮しないで全部食べなさい」
運転しながらでは食べられないし、途中、車を停められる場所もないのだろう、と思い到り、油紙に包まれた塊を取り出した。
車列の流れがゆるやかになる。ずっと遠くの信号が赤になっていた。
包みを開き、ギョッとする。
「髪の毛……挟まってるんだけど……」
パンの端からはみ出した一本の金髪をつまんで引っ張る。父の驚く顔がこちらを向いた。
サンドイッチからずるずる引き出され、するりと抜けた髪の端がサイドブレーキに触れる。
ロークが深い溜め息を吐くと、父は引き攣った笑いを浮かべた。
「……別に毒じゃないんだ。誰だってうっかりすることくらいあるだろう」
「じゃあ、あげる」
長い髪を抜いたサンドイッチを差し出すと、父は横を向いた。
「さっき食べたばかりだからな。いらんぞ」
「あっそ」
ロークは髪を紙袋に入れ、サンドイッチを包み直してダッシュボードに戻した。
車列が動く。
父が話し掛けて来なくなったのを幸いに、首都クレーヴェルの様子を観察した。
四車線道路の両脇はオフィス街らしく、低層ビルが連なる。高い物は五階建てで、ゼルノー市よりも立派なビルが多かった。
歩道を行く人の流れは速く、顔には焦りが滲む。見える範囲の街並は無傷だが、停戦時間が終わる前に建て物に入りたいのだろう。ロークも早く門の外へ出たかった。
「ここってどの辺? 門はまだ?」
「心配か? この辺は戦闘区域から離れてるから、大丈夫だ。ほら、歩いて会社に行く人が大勢いるだろ?」
言われるまでもないが、ゆるゆる進む車の流れはロークを落ち着かない気分にさせた。
社名の看板を読み、働く人を窓越しに眺めて気を紛らわす。
……クルィーロさんのお父さんの会社は……西門の近くって言ってたよな。
方向が違う。
一階が店舗の雑居ビルが多く、廂の下には客が詰め掛けていた。開いている店は少なく、この様子では入荷も滞りがちなのだろう。
いつ、パニックで暴動が起きてもおかしくない。
そんな緊張感で、空気はピリピリしていた。
「レーチカは安全だし、暮らしにも余裕があるから、心配しなくても大丈夫だぞ」
「そういうの、着いてから言ってくれないかな?」
「……そうだな」
軍服姿の五人組が歩道をゆっくり通り過ぎる。ネモラリス政府軍の一般兵だ。自動小銃を肩から吊るしているが、構えてはいない。
車が北西の門を抜けた時には、午前十時を回っていたが、一発の銃声も聞かずに済んだ。少なくとも、首都クレーヴェル北西部は、政府軍が完全に掌握しているらしい。
☆ミエーチ区に行ってた……「048.決意と実行と」参照
☆星の道義勇軍が家を乗っ取ってて、警察と治安部隊が突入してた……「052.隠れ家に突入」参照
☆明け渡す家の目印は教えてもらっていた……「036.義勇軍の計画」「042.今後の作戦に」参照
☆クルィーロさんのお父さんの会社は……西門の近く……「638.再発行を待つ」参照




