642.夕方のラジオ
アウェッラーナは買ったばかりの文庫本「秋の野草ガイド」を取り出した。
本には食用の草と薬草、毒草が写真入りで載っている。見開きひとつ分に名称と見分け方のコツ、使い方、調理方法が簡潔にまとめられていた。
丘のてっぺんは、傷薬になる薬草が群生していた。実は生っているがまだ青く、収穫しても使えない。まだ温かいので、咳止めになる虫綿はひとつもない。
……本屋さんはあぁ言ってたし、傷薬の材料だけ、ちょっと採っとこうかな。
薬師アウェッラーナは葉だけを少し摘んで【跳躍】した。
帰還難民センターの食堂に顔を出すと、レノ店長たちの泣きそうな笑顔に迎えられた。
「何かあったんですか?」
「ついさっき、臨時ニュースで、東地区の警察署が襲撃されたって言ってて……」
ロークが、今は静かな曲を流すラジオに目を遣る。
薬師アウェッラーナは息が止まりそうになったが、努めて冷静に首都の南門とレーチカ市の様子を語り、買物の報告をした。
調理師のおばさんから聞いた話をすると、ロークが早速、周波数を国営放送に合わせる。
あと少しで十六時だ。
近くで話を聞いていた人々がテーブルを囲む。厨房からは美味しそうな匂いが漂い、今が一番忙しい。無事に戻った報告は、後にした方がよさそうだ。
アウェッラーナは地図を一枚ずつ持って事務所へ行き、テープを借りた。
職員に手伝ってもらって、首都クレーヴェルとネモラリス島全域の主要道路図を食堂前の廊下の壁に貼り出す。
傍には、ロークがラジオから聞き書きした避難所と戦闘区域、通行可能な門の一覧があった。
職員が、帰還難民センターの位置を油性マジックで書き込む。
「ご提供、ありがとうございます」
「いえ……それより、これからどうなるんでしょう?」
「わかりません。ただ、現在は、センターに『退避』が発令されていません。今の我々には、一般市民には危害を加える気はない、と言う放送を信じることしかできないんですよ」
湖の民の職員が、戦闘区域と発表された国会議事堂周辺などを赤マジックで囲み始める。
薬師アウェッラーナは、同族の職員を残して食堂に戻った。
「こちらは、ネミュス解放軍です。我々は、市民のみなさんを傷付けたくはありません」
ラジオを囲む人垣が厚くなる。
アウェッラーナは少し離れたテーブルにもたれて放送に神経を集中した。
「首都クレーヴェルの市民生活を考慮し、十七時から十九時まで戦闘を中断します。政府軍が攻撃を仕掛けない限り、我々は攻撃しません。繰り返します――」
「ふざけたコト言ってやがる」
「だったら、最初からクーデターなんざしなきゃいいのによ」
「でも。もし、ここを出るんなら、夕方がいいってわかってよかったじゃないの」
「こんな時間に出て、隣街に着く前に日が暮れたら魔物に食われるだろうが」
「これからどんどん日が短くなるのに……」
「車がなきゃ、ここから防壁の外へ出る前に日が暮れちゃうんじゃない?」
「でも、早めに出て戦闘に巻き込まれたら……?」
同じ調子で繰り返される戦闘中断の放送を背に、帰還難民たちが不安と不満をぶちまけた。
ロークが選局ツマミを回し、FMクレーヴェルに戻す。こちらは、静かな曲を流すばかりで、すぐにボリュームを下げた。
人々がテーブルから離れるのを待って、アウェッラーナはいつもの席に腰を下ろした。
結局、使わなかったトパーズをレノ店長に返し、地図帳二冊と文庫本を渡す。
「えっ? ホントにもらっちゃっていいんですか?」
「はい。お釣りでもらったので、それに、店長さんたちには色々お世話になりましたから」
「お世話だなんて、そんな……俺たちの方こそ助けてもらってばっかりなのに……」
遠慮するレノ店長に半ば押しつけるように「水晶で使う鳩の術」を渡し、クルィーロには首都の大判地図を一枚、差し出した。
「調理師さんのお話では、広場や公園……この記号が付いてるとこが【跳躍】の許可地点になっていて、それ以外の場所は結界があって無理なんだそうです」
「えーっと、このセンターが……港公園がここで……一番近いとこって、港公園か。次が……この広場ですか?」
二人で地図を広げて確認する。
力なき民のレノ店長とロークも一緒に地図を覗き込む。
「防壁の中と外も遮断されてて、他所へ行くには一旦、どうにかして防壁の外へ出てからじゃないと跳べないそうです」
できるようになったかどうか確めていないが、クルィーロが【跳躍】の練習をしていたのは知っている。工員クルィーロは、神妙な面持ちで地図を受け取り、改まって礼を言った。
「俺は明日の朝、ここを出ますから、ラジオは置いて行きます」
「いいのか?」
「はい。俺はレーチカに行くんで大丈夫です。みなさんでどうぞ」
ロークの申し出に、三人だけでなく近くの席からも礼の言葉が飛ぶ。
薬師アウェッラーナは、大判の地図二枚と「秋の野草ガイド」を袋に仕舞った。
「私も明日の朝、レーチカに移動して身内の船を捜します。そこになければ、もう一度、王都へ行って情報を集めます」
「もう、ここには戻らないんですか?」
クルィーロの不安げな顔に首を横に振る。
「通帳の再発行がまだなので……」
遅くとも数日後には、ここを完全に離れるつもりだ。
その時にあの門が戦闘に巻き込まれていなければいいが……とは誰もが思うところだろうが、誰もそれを口にしなかった。




