641.地図を買いに
薬師アウェッラーナは、忘れ去られたようにひっそり佇む書店の扉を開けた。小さな店で、アウェッラーナの他は雑誌を立ち読みする若者が一人いるだけだ。
天井から下がる案内板をざっと見て、まっすぐに地図売り場へ向かう。
目当ての物はすぐにみつかった。詳細な道路地図の本を「首都圏版」と「ネモラリス島主要道路版」の一冊ずつ、ネモラリス島の主要都市と道路の大判地図を二枚、首都の大判地図を三枚、レジに持って行く。
「傷薬で売ってもらえますか?」
店番の老人はプラ容器の蓋を開けて嗅ぎ、アウェッラーナの徽章【思考する梟】を見て頷いた。
「こんだけありゃあ、もう一冊、地図帳持ってってもらってもいいくらいだ。どうするね?」
「えーっと、地図は頼まれ物なんで、他の本でもいいですか?」
「この地図帳と同じ値段だったら構わんよ」
皺だらけの手が「ネモラリス島主要道路版」の地図帳を裏返し、現金価格を指差した。
薬師アウェッラーナは、レジ脇の新刊コーナーから文庫本を手に取った。「水晶で使う鳩の術」と「秋の野草ガイド」だ。裏表紙を見ると、二冊合わせても地図帳より少し安い。
「あんた、こんなの買ってどうすんだい?」
「知り合い用なんです。こっちは自分用」
目を丸くする老人に湖の民の薬師が苦笑する。魚と薬草には詳しいが、食べられる野草はあまり知らない。レノ店長に教えてもらえたのは、季節柄、春と夏の草だけだ。
力なき民用の魔道書は、事情を知った今、ロークにはあげられない。せめてレノ店長たちだけでも、みんなが別れた後、少しでも生き延びられる可能性を増やしたかった。
老人が、お釣りとして緑青飴を袋ごと寄越す。
「えっ? お釣り、こんなにいただけるんですか?」
「今、ここらじゃ薬が品薄で、値上がりしてんだよ。知らんのか?」
胡散臭そうに眇められた目を向けられ、事情を話す。
「えぇ、ちょっと、他所から来たので……」
「怪我人が大勢、流れて来たし……首都のあれがいつ、こっちに飛び火するかわからんからな。ギアツィントやもっと遠く……山の北へ行くもんが増えとるんだ」
「みんなも、不安なんですね」
「まぁなぁ。早いとこ平和になってくれにゃ、商売あがったりだ」
老人はやれやれ、と首を横に振った。
広場の彫刻は覚えたが、書店から広場まで【跳躍】の許可地点がなかった為、東門まで歩いて戻る。
食料品店で、緑青飴十粒とオリーブオイルの小瓶を換えてもらえた。飴はまだ四十粒ある。
……この街のどこかに、ロークさんの家族が居て、カリンドゥラさんのおうちがあるのね。
ロークの家族は無事だったが、ローク自身はそれを全く喜んでいない。家族が世話になっている国会議員に外国の情報を伝えて、和平交渉の材料を与える為、レーチカに行くと言っていた。
その議員が、高校生のロークの話をどこまで聞いてくれるか、いや、相手にしてもらえるかどうかもわからない。それでも、彼は一縷の望みを懸けて隠れキルクルス教徒の家族の許へ行く決心をした。
……できることを、できるときに、できるだけ、するしかないのよ。
この手提げ袋を拵えてくれた針子のアミエーラは、遠縁のカリンドゥラとラクリマリスの王都で会えたが、これでは戻って来られないだろう。
カリンドゥラは王都ラクリマリスで、歌手ニプトラ・ネウマエとして慈善活動をしている。当分、彼女の許に居れば、アミエーラは大丈夫だろう。きっと、フラクシヌス教団が守ってくれる。
商店街の人混みを抜け、野菜彫刻の広場へ出た時には、十五時を少し回っていた。
ここから門までの間にも許可地点がない。大きな街は【跳躍】除けの結界で守られているから、結局、歩きだ。
アウェッラーナは足を止めず、レーチカ市の東門を出た。手提げ袋を肩に掛け直し、クレーヴェルの門前の丘を心に描いて呪文を唱える。
「鵬程を越え、此地から彼地へ駆ける。大逵を手繰り、折り重ね、一足に跳ぶ。この身を其処に」
ふわりとした感覚の直後、階段一段分の落差を感じた。地に接した足が、草の斜面を滑り落ちる。敢えて斜面に倒れて滑落を止め、青草からそっと半身を起こした。
……丘の下に出るつもりだったのに。ダメね。
丘を意識し過ぎたのかもしれない。
軽い防禦の術が掛かったコートのお陰か、どこにも怪我がない。着地で足を捻らなかったことに感謝の祈りを捧げ、そっと起ちあがった。
草に覆われた斜面からは、防壁に囲まれた首都クレーヴェルの街並が鳥に近い視点で見えた。
アウェッラーナは緑の眼を眇めてみたが、肉眼では南門付近の様子しかわからない。湖からの風はやや湿り気を帯び、遠くの景色を霞ませていた。
手提げ袋を持ち直し、前屈みになってそろそろと斜面を登る。
丘の頂上から見下ろせば、先程よりも広い範囲を視界に収められた。
見える範囲で戦闘が行われている様子はない。【遠望】の術か双眼鏡でもあれば、睨み合う両軍を確められたかもしれないが、アウェッラーナにはどちらもなかった。
首都クレーヴェルから脱出する車列が、丘の麓の国道を同じ方向へ流れて行く。道の両側は畑と牧草地だが、人や家畜の姿は見えなかった。
畑と牧場はパッチワークのようにゆるやかな丘陵地を覆い、ずっと遠くに小さな森と集落がアップリケや飾りボタンのようにちりばめられている。
この丘はラキュス湖から遠く、丘に遮られて漁村の様子はわからない。
ずっと遠くで湖水がガラス片のように輝くだけで、昼網の漁船もネモラリス政府軍の防空艦も見えなかった。




