640.脱出する車列
薬師アウェッラーナは、プラ容器ふたつ分の傷薬を渡して調理師に道案内を頼んだ。
クーデター発生で力なき民の職員が出勤できない中、昼食終了から夕飯の仕込みまでの短い休憩時間に申し訳なく思ったが、二人は快く引き受けてくれた。
「今朝から、定食屋でパートしたことあるって人が何人も手伝ってくれるようになったからね、大丈夫だよ」
女性調理師がエプロンを外して屈託なく笑う。
「私の方が魔力強いし、ちょっと案内するだけだから、すぐよ」
「自宅待機の命令は出てないし、俺らが使ってるルートはまだ当分、安全なんだろうよ」
男性調理師に笑顔で送り出され、二人は帰還難民センターの門を出た。
湖から吹く風に薄手のコートが翻る。調理師のおばさんも、アウェッラーナと似たような呪文入りのコートだ。
港公園の展望台まで降りて、おばさんは目を細めた。
湖面にポツリと浮かんでいるのは、大型の防空艦が一隻きりで、漁船も貨物船もフェリーも動いていない。アウェッラーナたちがここに到着した日、岸壁や倉庫街に見えた荷役の人々の姿もなかった。
おばさんは、首を横に振って右手を差し出した。薬師アウェッラーナが、その掌の真ん中に【魔力の水晶】を乗せ、自分の手を重ねる。
「さぁ、行くよ」
おばさんが薬師の手を【水晶】ごと握って【跳躍】の呪文を唱える。目眩に似た浮遊感に続いて、風景が一変した。
「ここは……」
「真南の門の近くの広場だよ」
円形広場の中央には、半世紀の内乱が終結した記念に樫が植えられ、碑が建っていた。
夕方、帰宅が遅れた力なき民の避難場所として設けられた広場だ。【魔除け】と【結界】の魔法陣を兼ねた遊歩道が整備され、芝生の上には四阿とベンチが並んでいる。
「朝は、何軒か開いてるんだけどねぇ」
おばさんが声を落とした。
薬師アウェッラーナは、シャッターが降りた商店街から目を逸らし、記念樹と碑を目印として心に焼き付ける。
テニスコート二枚分ばかりある広場にも、大通りにも人の姿はないが、車はひっきりなしに街の中心から門へ向かって流れていた。
排ガスの臭いが、工場地帯のグリャージ区と同じくらい濃い。薬師アウェッラーナは顔を顰めた。
信号が二度変わるまで碑を見詰めて心に刻み、二人は真南の門へ向かった。
家々は鎧戸を固く閉ざしているが、ラジオの報道が本当なら、民家に掛けられた【巣懸ける懸巣】学派の各種防護の術程度では、魔装兵の攻撃が相手ではまるで役に立たない。
逃げ場のない人々は、どんな思いで家に籠って息を殺しているのか。
クレーヴェルは流石に首都だけあって、アウェッラーナが想像したよりずっと広かった。
……ネミュス解放軍の人がそんなに多くなかったら、無事な地域が多くて当たり前よね。
人通りが絶えた道を歩きながら考える。
調理師のおばさんは、出勤の時間帯には店が開いていると言っていた。他所の街に頼るアテのない人たちは、急いで買物をして、また家に籠って息を潜めているのだろう。
仕入れや従業員の出勤はどうなっているのか。
センターの調理師のように、力ある民がまだ通行可能な門まで跳躍して、出勤ついでに他所から仕入れているのだろうか。
仕事は、学校は、通院はどうなっているのだろう。
食糧の備蓄がなくなる前にどちらかが勝って、街に平和が戻るだろうか。
「国営放送とかでね、日の出から朝九時までと、夕方五時から日没までは、政府軍が戦闘を仕掛けて来ない限り戦わないって言ってたから、配送のトラックが来たし、お店も開けられるんだよ」
「そうだったんですか。私たち、ずっとFMクレーヴェルを流してたんで……」
「今日の夕方でも聴いてごらんよ。えーっと……四時頃から言い始めるね。朝はちょっと早いけど、五時くらいから」
ネミュス解放軍の通勤通学を考慮したらしい宣言がどの程度守られているか不明だが、その時間帯に戦闘があれば、放送を耳にした人々は「政府軍が国民の暮らしを無視した」と思うだろう。
あの若者のように、ネミュス解放軍の主張に同調する者も居るくらいだ。
そもそも、彼らがクーデターを起こしたりしなければ平和だったのに、ちょっとした気遣いを示してみせることで、政府軍を悪者に仕立て上げる。狡猾なやり口に気付き、アウェッラーナは胸の奥を小さな針で掻かれたような気がした。
「まぁ、でも、バスが動いてないから、力なき民の人は通勤が間に合わなくて、自宅待機に変わりはないんだけどねぇ」
調理師のおばさんが苦笑する。
今朝からレノ店長たち以外にも帰還難民が数人、手伝うようになったので、かなりマシにはなったらしい。アウェッラーナはそれを見て、思い切って道案内を頼んだのだ。
今の時間でも首都から逃れる車列が途切れない。
ネミュス解放軍が不戦を宣言した時間帯なら、どんなに混むのか。いや、渋滞のせいでこんな時間まで外に居るのかもしれなかった。
「自動車は燃料がなくなったらおしまいだからねぇ」
おばさんが気の毒そうに車列を見送る。
シャッターが連なる大通りを二十分ばかり歩く間、歩行者と行き合うことなく真南の門を出た。
門の外は草地で、少し離れたところに小高い丘があり、意外と見通しが利かない。
国道を行く車列は門を出てすぐに広がっていた。首都から出る車が反対車線も埋め尽くし、その全てが丘を迂回して南へ向かっていた。
「岸沿いに漁村、あの丘をぐるっと回った方には農村と畑があって、お野菜とかはそこから届けてもらってたんだけどね」
「今は、道がみんな塞がって……車じゃムリですよね」
「持てるだけ持って【跳躍】すれば少しは運べるけど、あんまりムリは言えないもんねぇ。さ、レーチカへ跳ぶよ」
薬師アウェッラーナは別の【魔力の水晶】を出して調理師の掌に乗せた。
「ここはレーチカ市の東門。時間があったら、おいしいケーキ屋さんに案内してあげられるんだけどね、本屋さんだけでいいんだね?」
「はい、あの、首都とネモラリス島全体の詳しい地図が欲しいんです」
「わかったよ。ついといで」
レーチカ市内は、首都クレーヴェルの張り詰めた静けさが嘘のように賑っていた。アウェッラーナたちが帰国初日に見たフリーマーケットの八割くらいの人混みだ。
商店街の通路を埋める湖の民の髪が、秋の日を受けて輝く草原に見え、陸の民の大地の色や黒の髪は、なんとなく荒れ地を思い起こさせた。それなら、ほんの僅かの赤毛は、さしずめ花か。アウェッラーナは港公園で出会った大男を思い出した。
……あの人たち、地元の人っぽかったけど、大丈夫かな?
「首都から逃げて来た人たちの分、混んでるのよ。どこもいっぱいで、早く落ち着いて欲しいんだけどね」
「大変なのは首都だけじゃないんですね」
「あんたたちの方がずっと大変だよ」
きっと、物価も上がっているのだろう。
ここにも首都クレーヴェルと同じ目的の広場が設けられている。
首都と違うのは、ベンチと野菜の彫刻が交互に並んでいることだ。薬師アウェッラーナは【跳躍】の目印に二十日大根の彫刻を覚え、首都の広場を思い返した。
樫と碑を鮮明に思い描き、小さく頷く。
……大丈夫。一人でも戻れる。
手提げ袋を手に商店街を歩くアウェッラーナの姿は、湖の民が多いこの街では、普通の買物客にしか見えないだろう。
食料品店の店先は大勢の客でごった返し、値段交渉の声が過熱している。人垣の隙間から覗いた棚はかなり品薄だった。
針子のアミエーラが拵えてくれた手提げには、交換用の傷薬入りプラケースがひとつ、コートのポケットには【魔力の水晶】と財布、レノ店長から預かった小粒のトパーズがひとつ入っていた。
「さ、着いたよ」
「ありがとうございました。帰りは自分で何とかなります」
「大丈夫かい?」
「はい。無理をお願いしてすみませんでした」
「いいのよ。地元なんだし。じゃ、気を付けてね」
調理師のおばさんの背中は、あっという間に商店街の雑踏に紛れた。




