639.一時のお別れ
クルィーロはスプーンを置いて、いつもよりゆっくり【操水】を唱えた。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ……」
力ある言葉に応え、冷めきったスープが皿から起ち上がった。父の目が大きく見開かれるのを視界の端で捉えながら、結びの言葉を唱える。
「……起ち上がり、我が意に依りて、水よ温もれ人肌より熱く、煮え立つ手前まで」
温度をいじって解放すると、スープ皿に戻った中身がほかほかと湯気を立てた。父の丸くなった目に頷いてみせ、アマナの分も温め直す。
「なっ。まぐれじゃないだろ?」
「あ、あぁ……だがな、クルィーロ……」
「父さんこそ、暗くなる前に会社の車、返しに行かなくていいのか?」
「いや、だがな……」
「ティスちゃんも一緒に連れてって」
アマナが父を遮り、パン屋の三兄姉妹に首を巡らせた。父が息を呑んでアマナの視線を辿る。レノたちも意外だったようで、何とも言えない顔で父を見詰め返した。
「父さん、会社の車ってどんなの?」
「ん? あぁ、営業車……普通の乗用車で五人乗りだ」
「レノたちも一緒なら、荷物もあるし、一遍には乗れないだろ」
父とアマナ、レノとピナティフィダとエランティスで丁度、五人だ。荷物はトランクに積みきれないだろうから、どう詰めても六人は乗れない。
「おじさん、厚かましいんですけど、この御恩は必ず返します。ピナとティスをお願いします」
「レノ君はどうする気だ?」
改まって頭を提げたレノに父が驚く。
「俺も通帳と資格証明書がまだなんで、クルィーロと一緒に残ります」
「私も通帳がまだなんで……」
ピナティフィダが小さく手を挙げて言うと、エランティスの目から涙がこぼれ落ちた。兄姉を呼ぶ声が言葉にならない。
見かねた薬師アウェラーナが、コートのポケットから紙片を出してテーブルに広げた。
銀行の預かり証だ。
くるりと裏返して説明する。
「裏が委任状になっているので、レノ店長が代わりに受け取れますよ」
ニュースのメモ用に置いていたペンをピナティフィダに差し出す。レノとクルィーロの父が同時に頷くと、ピナティフィダはペンを手に取った。
「おじさん、ありがとうございます。でも、お兄ちゃんは……」
「俺はもう大人だし、大丈夫だって」
レノが手を伸ばして、エランティスの涙をハンカチでごしごし拭う。
父は溜め息と一緒に諦めを吐き出し、声を絞り出した。
「わかった。証明書が揃ったらすぐ電話してくれ。何が何でも迎えに来るから」
書き終えたピナティフィダからペンを借り、メモ用紙に会社と社宅の連絡先を走り書きする。
クルィーロは社名と部署名、電話番号を頭に叩き込み、メモをツナギの胸ポケットに入れてしっかりボタンを留めた。
「あの、ちょっといいですか……?」
話が終わったと見た帰還難民の一人が、父にどのルートを通って来たのか質問した。
クルィーロとアマナは大急ぎでスープを食べる。
父が自分が見た範囲で首都の状況を語ると、帰還難民たちはその一言一言に一喜一憂する。
「東のリャビーナ市に会社の保養所があるんだが、そっちはもう、戦闘区域から逃れた社員の家族でいっぱいなんだそうです」
「戦闘が始まってから、無事に逃げられた人が居るんですか?」
「えぇ。政府軍もネミュス解放軍も、初日は周辺住民を最初に逃がしてくれたそうなんです」
あの夜、ラジオから漏れ聞こえた断片的な音声だけでも、放送局で血が流れたことが窺えた。
父の言う「初日」は、国会議事堂や放送局などが占領された夜が明けた「最初の本格的な交戦日」を指しているのだろう。
「でも、さっき、ラジオで……」
帰還難民の声が沈み、父も顔を曇らせた。
「私も先程、カーラジオの国営放送で……」
「そっちは何て言ってました?」
「こっちはFMクレーヴェルだったんですけど……」
「政府軍の【光の槍】で巻き添えになった人が多数、死傷した、と……」
場の空気が一気に張り詰めた。
「さっき、FMクレーヴェルじゃ、ネミュス解放軍の仕業だって言ってたぞ?」
「どっちがホントなんだ?」
困惑と動揺が漣となって広がり、帰還難民センターの食堂を満たす。
クルィーロは喉が詰まりそうになりながら、ぬるくなったスープを食べ終えた。
みんなで部屋へ戻り、荷物を整理する。
「こんな狭い所に七人も……」
「あ、父さん、違うんだ。センターの人はちゃんと人数分の部屋があるって言ってくれたんだけど、俺たちが、離れ離れは心細いからって、ムリ言って一緒にしてもらったんだ」
顔を顰めた父にクルィーロが笑ってみせると、みんなも頷いた。
父は部屋とみんなを改めて見回して礼を言う。
「今までウチの子たちを支えて下さってありがとうございます。どうやってご恩を返せばいいのか……」
「あぁ、いえ、お構いなく。私たちもクルィーロさんとアマナちゃんにたくさん助けていただきましたから、お互い様です」
「そうですよ。クルィーロさんが居なきゃ、何回死んでたかわかんないし、アマナちゃんたちの歌のお陰で旅費がいっぱい稼げたし……」
父がクルィーロとアマナを振り返って見せたのは、驚きと誇らしさが入り混じる微妙な笑顔だった。
「話すとむちゃくちゃ長くなるから、また後で。荷造り急がなきゃ、日が暮れるよ」
手早く荷造りしつつ、クルィーロは【魔除け】のリボンとロークにもらったばかりの作用力を補う【魔力の水晶】を取り出した。女の子たちの手首にリボンを巻き【魔力の水晶】を握らせる。リボンから淡い真珠色の光が広がった。
「それは……?」
「魔法の道具屋さんでバイトしてもらったんだ。【魔除け】のリボン。念の為だよ、念の為」
クルィーロは半ば自分に言い聞かせながら、アマナの荷物を手に廊下へ出た。薬師アウェッラーナが【鍵】を掛け、みんなを外へ促す。
父は社名入りの乗用車のトランクを開け、四人の荷物を押し込んだが、案の定、予備のタイヤなどが邪魔で全部は入らなかった。仕方なく、後部座席にも積んだ。
助手席のアマナにシートベルトを着けさせ、父が運転席へ回る。
「大丈夫、大丈夫。後で絶対、クルィーロと一緒にそっち行くから」
レノが後部座席の妹たちに笑ってみせたが、二人は今にも泣き出しそうな顔で指先が白くなる程、【魔力の水晶】を握りしめていた。
「じゃ、全部揃ったら電話するから」
「わかった。すぐ迎えに来る。無理するんじゃないぞ」
それ以上言うと泣いてしまいそうな気がして、クルィーロはただ頷いて手を振った。
エンジンが始動し、車体が揺れる。
互いに手を振り合い、社用車は帰還難民センターの敷地を出て行った。
その後ろ姿が見えなくなるまで手を振って、クルィーロは改めてセンター周辺の街並を見回す。
どこも壊れていない。
午後の街に人通りこそないが、車はそこそこ走っていた。信号もちゃんと作動している。この住宅街は、ラジオのニュースがなければ、平和そのものに見えた。




