632.ベッドは一台
「術には様々な系統があると、お話したのを覚えていますか?」
「はい。センセイはえーっと……【青き片翼】……ですよね?」
サロートカが、無限の針に巻きつく片翼の蛇の徽章を見て答える。
呪医は頷いて、ベッドの端に腰を下ろした。
「街の人たちは、鳥の形の首飾りが多かったですけど、形が違うのは、それだけ魔法の種類がいっぱいあるってコトなんですよね?」
「そうです。術の系統……学派毎に徽章が違います。この街はざっと見たところ、漁師の【漁る伽藍鳥】、職人の【編む葦切】、農家の【畑打つ雲雀】の術者が多いようですね」
「そうなんですか。えっと、首飾りしてない人も居ましたけど、着けとく決まりとかはないんですか?」
呪医の斜め前に立つサロートカに、手振りで座るよう促す。針子の少女は少し迷う素振りを見せたが、一人分の隙間を空けて右に腰を下ろした。
「決まりはあります。自分の専門ではない学派の徽章を着けて身分を詐称すれば、処罰されます」
「じゃあ、首飾りがない人たちは、力なき民なんですか?」
「いいえ……あぁ、お婆さんが言った通り、ラクリマリスにも少数ですが、力なき民は居ます」
「えっと……?」
「徽章のない人たちの大部分は、【霊性の鳩】学派の力ある民です」
「レイセイのハト?」
「家事など、日常生活で使う術です。例えば、掃除や洗濯などに使う【操水】ですね」
サロートカは自分の袖をちらりと見て頷いた。
「生活の基本なので、魔法使いなら常識としてある程度、修得します。それで例外的に徽章が配布されません」
サロートカが無言で頷く。
「この学派を専門に研究して、術を開発した人や、膨大な術の大部分を修め、多くの人を教え導くまでに究めた導師だけは【霊性の鳩】学派の徽章を授与されます」
「そうだったんですか」
長々とした前置きに頷いてみせるサロートカの眼には、それと呪医セプテントリオーの性別になんの関係があるのか、と言いたげな色がありありと窺えた。
呪医セプテントリオーは、壁を見詰めて説明を続ける。
「術には、使用者の条件が個別に定まっているものがあります」
「魔力があっても、使えない魔法があるんですか?」
右頬にサロートカの視線を感じながら頷く。
「術の開発者が意図的に条件を設定したのではなく、使える者とそうでない者が、後からわかるのです」
魔術の予備知識のないサロートカは、説明の意味を考えているのか、身じろぎひとつしなかった。
ややあって、微かな衣擦れの音がした。キルクルス教徒の少女が頷いたのだと察し、呪医セプテントリオーは続ける。
「例えば、魔獣に食い千切られるなどして欠損した部位を再生させる術は、過去に身体欠損を経験していなければ、使えません。大昔は術者を増やす為、故意に指を切断していました」
サロートカが息を呑む。
「私が生まれた時代には、人道上の見地から廃止されていましたから、私にはその術が使えません。切れた部分が残っていれば、繋ぎ直せますけどね」
……四百年以上、この身体で生きてきたのに。
説明を遠回りしてしまう己が滑稽だった。
「私が修めた【青き片翼】や対になる【白き片翼】、術と薬を組み合わせて癒す【飛翔する梟】など、医療系の術の多くは、性別を問わず生殖行動を行えば、術者の資格を失います」
年頃の娘にとっては、理解したことを示すことが憚られる条件だ。沈黙を理解と看做し、説明を続ける。
「欠損部位を復元する術同様、昔は幼い内に【不老の術】を掛けて成長を止めて、治療の術を学ばせていたそうです。私が生まれるよりずっと前の時代に、人道上の見地から成長の阻害は国際条約で禁止され、現在は公にそれを行う国はありません」
この家の者が、年頃の娘を外見上は中年男性のセプテントリオーと同室にしたことを、彼女はどう解釈したのかわからない。
単に部屋数の都合だと思っただろうか。
「非常に強力な【白鳥の乙女】と言う術で、犯罪を未然に防ぐ対策もされています」
呪医セプテントリオーは針子のサロートカの反応を待たず、壁を見詰めたまま続ける。
「結婚で呪医を廃業して、薬師に転職する人も居ますが、世間の反発は大きく、孫の顔を見たい親は、我が子を呪医にしたがりません」
「でも、お医者さんが居ないと困りますよね? この街の人たちもセンセイをすっごく歓迎してくれてますし……」
少女の困惑は尤もだ。
「今、呪医になるのは、どんな人だと思いますか?」
「えーっと……結婚したくない人……とかですか?」
一番当たり障りのない答えを返され、小さく首肯する。
「そうですね。何らかの事情があって、自ら結婚しない意志を固めた人。それに、自分が家庭を持つ幸せよりも、多くの人の命を救う道を選んだ志ある人も居ます。ですが……」
説明の声が微かに震えていることに気付き、セプテントリオーは細く息を吐いた。
固く閉ざされた窓の外からは物音ひとつ聞えず、家人も寝静まったのか、家の中も静かだ。戸に【鍵】を掛けてあり、誰にも邪魔されることはない。
セプテントリオーは言葉を絞り出した。
「生まれつき、子孫を残せない身体の者が大半です。ある程度、手が掛からなくなってから、せめて食いっぱぐれないように、と親が呪医の許へ養子に出します」
もう四百年以上も前のことだ。
他の記憶はあやふやで、すっかり忘れてしまったことの方が多い。
両親も、親元で育った兄弟姉妹も、もう居ない。
それなのに、親元を離れた日の記憶だけは、やけに鮮明に残っていた。
「私は幸い、近所だったので、時々は親元へ帰してもらえましたし、修行の合間に兄弟姉妹と遊んだりもできました」
努めて明るい声で言ってみたが、サロートカの方を見られない。漆喰の壁は染みひとつなく、【灯】の青白い光をぼんやり反射していた。
「今の外見は大人の男性で、髭が生えますし、声変りもしましたが、生まれてすぐわかる状態で……えぇっと……もしかすると、探せば、身体のどこかにあるのかもしれませんけど、つまり……私には子孫を残すことができません」
人々は“呪医”を男女の枠の外に置く。
そこには悪意も差別感情も憐憫も何もない。当然のこととして、人々の認識に定着していた。
サロートカが肩で大きく息をして、ベッドが軋んだ。
気配が動き、肩が触れるか触れないかの所で落ち着く。
思わず戸口に顔を向けた呪医の右手を針子の両手が包み込んだ。
「ごめんなさい。……何も知らなくて」
サロートカの手に力が籠もる。
呪医セプテントリオーは握られた手に視線を向けた。キルクルス教徒の少女は俯いて、表情は窺い知れない。サロートカが魔法使いのセプテントリオーに手を触れたのは、初めてだ。
「自治区民のあなたが知らないのは当然です。失念して、説明を怠った私の落ち度です」
「いえ、でも……ごめんなさい」
予備知識のないサロートカに謝られ、セプテントリオーは自分が情けなくなった。
「私は、あなたに何もできませんから、安心して下さい。この家の人たちも、そのつもりで同じ部屋にしてくれたのでしょう。その方が、あなたが安心できると思って」
呪医セプテントリオーは、自分の手を握るサロートカの手に左手を重ねた。
それから、幾晩も同じベッドで眠った。
魚屋を目にしたサロートカが、骨が刺さった件とベッドの件、どちらを思い出して溜め息を吐いたのか、呪医セプテントリオーにはわからない。
老婆たちのお喋りがどちらからともなく終わり、三人はノージ港へ向かって歩き始めた。
☆術者の資格を失います……「108.癒し手の資格」参照




