623.水鏡への問い
係員に促され、ピナが左袖を少しめくって銀の深皿に手を入れた。
水面が落ち着くのを待って、もうすっかり覚えてしまった質問を声に出す。
「ネモラリス国営放送を占領して放送しているのは、ネミュス解放軍です」
みんなが中学生のピナを囲み、息を殺して【明かし水鏡】の水面を見詰める。
たっぷり十数えて、漣ひとつ立たないのを確め、ピナはひとつ息を吐いて、次の質問を口にする。
「FMクレーヴェルの音楽と天気予報以外の放送は、ネモラリス共和国政府とネモラリス共和国軍の公式発表です」
これも、水面は静かだ。
……名乗った通りなのか。でも、放送の内容が信用できるかどうかは別だよな。
ピナが続けて質問する。
「ネモラリス政府軍が、FMクレーヴェルで発表した避難所は全て安全です」
深皿の縁から水が立ち上がり、魔獣の牙が咬み合うように中央へ向かって倒れた。
「お、おいッ!」
「戦闘に巻き込まれてんのか?」
帰還難民のおじさんと青年に答えられる者は居ない。
役人たちも、魔法の道具への眼差しが険しくなった。
「ピナ、取敢えず、次行こう、次」
「……ネミュス解放軍は、自分たちに逆らわない一般市民を故意に傷付けることはありません」
誰かが小さく息を呑む。レノの囁きに頷いて発した質問に、水面は動かなかった。
「ネミュス解放軍がラジオで発表した戦闘区域の範囲は正しく、それ以外の場所では、ネモラリス政府軍とネミュス解放軍の戦闘に巻き込まれることはありません」
これには水面がざわめき、深皿の外から内へ向かって白い牙のような波が次々と立ち上がっては消えた。
「戦線が拡大したけど、発表が追い付いてないってコトか……」
青年が窓の外へ目を向ける。
まだ、帰還難民センターの辺りは静かだ。レノには土地勘がないのでよくわからないが、先に発表された戦闘区域からは遠いのだろう。
波が落ち着くのを待って次の質問をする。
「ネモラリス島と他の島や大陸を繋ぐ船は、今も運行しています」
しばらく待っても、水は動かなかった。だが、どこ行きの便が、ネモラリス島のどの港から出ているのか、【明かし水鏡】ではわからない。
「一昨日は、そこの港に当分の間“ネーニア島行きは運休”って看板が出てたけどな」
レノが思わず漏らすと、係員が説明した。
「今の聞き方では、船会社の定期便以外も含まれてしまいます」
「他の船があるってコトですか?」
レノが期待を籠めて明るく問う。答える役人の声は暗かった。
「漁協の有志が、ネーニア島との間を行き来しています。天気のいい日だけ、しかも漁船ですから、一度に大勢は運べません」
「あんまり遠くじゃムリだよな? ギアツィントか、トポリ辺りの漁師さん?」
青年が机に身を乗り出す。
役人は一瞬、しまったと言いたげに顔を歪めたが、すぐ表情を消して言った。
「中には、高額な運賃を要求する輩も居るそうですが、警察は黙認しています」
焼け出されてどうにか持ち出せたなけなしの全財産を巻き上げられても、警察は助けてくれない。最悪、証拠隠滅で湖に放り込まれ、魔物の餌にされるかもしれない。
「もしかしたら、船会社が避難用のちゃんとした船を手配してくれるかもしれんぞ。クレーヴェル港じゃなくて、どこか近くの港から……」
「あったとしても、その情報をどうやって手に入れるんだ? 放送局は全部押さえられて、新聞も配達できない、役所もアテになんない、電話もあちこち断線したってのに」
思いつきを口にしたおじさんに、青年が噛みついた。
おじさんに助けを求めるような目を向けられ、ピナが質問を読み上げる。
「首都クレーヴェルと外部を繋ぐ門は、全て開放されています」
水は動かない。
まだ通れそうだとわかり、場の空気が少し緩んだ。
ピナは、薬師アウェッラーナと記録係が書き終えるのを待って、質問を追加する。
「首都クレーヴェルと外部を繋ぐ門は、全て安全に通れます」
これには、水が騒いだ。
もう何度も見た三角の波が中心に向かって消える。
「えぇっと、じゃあ……首都クレーヴェルと外部を繋ぐ門の一部は安全に通れます」
沸き立つ鍋に水を足したように水面が鎮まり、元の水鏡に戻った。
「でも、これじゃあ、どこが安全か……」
薬師アウェッラーナが呟くと、係員が提案した。
「今から言う門の名をメモして下さい。……あなたはこの順番で安全に通行できるかどうか、質問して下さい」
係員が東から順に門の名を挙げる。
薬師と記録係が書き終えるのを待って、ピナは言われた通りに質問した。八つの門の内、北西、真西、真南の三カ所だけ、安全に通れるらしい。
政府軍の増援とネミュス解放軍が門を挟んで戦っているなら、今は安全な門も、いつ通れなくなるかわからない。
「首都クレーヴェルの帰還難民センターは安全です」
質問時点の状態しかわからないのだから、聞いても仕方がないような気がしたが、一同にホッとした空気が広がった。
ピナが質問を追加する。
「首都クレーヴェルの帰還難民センターの半径五キロ圏内では、ネモラリス政府軍とネミュス解放軍の戦闘は行われていません」
これにも水面は静かで、安心が広がる。
……いつ、戦線が拡大するかわかんないけど、今はホントに大丈夫なんだな。
ピナが早口に問う。
「ウヌク・エルハイア将軍は、今も生きています」
水面の静穏を見届け、問いを付け足す。
「ウヌク・エルハイア将軍は、自らの意思でネミュス解放軍を組織しました」
水面が牙を剥き、人々に驚愕と困惑が広がった。
ピナが【明かし水鏡】から手を出し、何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせようとする。レノは妹の肩に手を置き、冷え切った左手に自分の掌を重ねた。
「代わろうか?」
「大丈夫。……ラキュス・ネーニア家の当主シェラタン様は、ネミュス解放軍のクーデターを認めました」
また、水面が騒ぐ。
今朝、追加された質問は、どれも庶民が知っても仕方がないような気がしたが、ピナは最後の質問も読み上げた。
「ラキュス・ネーニア家の当主シェラタン様は、自らの意思で行動しています」
魔法の深皿【明かし水鏡】は、これにも「発言内容は事実に反する」と水面を波立たせた。
みんなの眼が、湖の民アウェッラーナに集まる。薬師は俯いて答えを書き留めるのに集中していた。質問状に表れた文字が揺れる。
ネミュス解放軍に賛同の意を示した青年が首を傾げた。
「えっ? これって、湖の民の偉い人たち、無理矢理ネミュス解放軍の手伝いさせられてるってコト……?」
「そこまではわかりません」
係員の素っ気ない声に、記録係が付け足す。
「どこかに幽閉されて名前を騙られている可能性や、誰かを人質に取られて協力させられている可能性……色々考えられますけど、この【明かし水鏡】では、そこまでのことはわかりません」
「全ての可能性について質問するワケには行きませんから」
魔法の深皿に魔力を注ぐ役人は、ざわめく水面を睨んだまま、地を這うような声を絞り出した。
仮にそれで事実がわかったところで、文官の彼らにはどうにもできない。庶民のレノたち帰還難民や、首都クレーヴェルの住人にしてもそうだ。
「あ、あの、それと、個人的なコトも聞いていいですか?」
「ひとつだけですよ」
疲れ切った返事に笑顔で礼を言い、ピナは【明かし水鏡】に手を入れた。
「私たちのお母さんは、ネモラリス島に居ます」
水面の答えは「否」だった。
☆【明かし水鏡】……「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説08.道具」参照
☆ネモラリス国営放送を占領して放送しているのは、ネミュス解放軍……「600.放送局の占拠」~「602.国外に届く声」参照
☆ネミュス解放軍は、自分たちに逆らわない一般市民を故意に傷付けることはありません……「618.捕獲任務失敗」参照。
※【光の槍】の術=爆撃機を迎撃可能=ちょっとしたミサイル並の威力。
一応、嘘は言っていないが、わざとじゃなくても流れ弾に当たれば色々終わる。
☆“ネーニア島行きは運休”って看板が出てた……「576.最後の荷造り」参照




