620.ふたつの情報
レノとピナは、パン生地の発酵を待つ間、残り僅かなタマネギのみじん切りを手伝う。
薬師アウェッラーナは、ふたつの薬の塊を宙で混ぜ合わせていた。見慣れた魔法の傷薬よりずっと濃い緑で、何となく効果が高そうに見える。粘度の高い軟膏が蓋付きのプラ容器に意思を持つ生き物のように収まった。
調理師たちは、百人近い帰還難民みんなに行き渡るよう、ぬるま湯で戻した肉を細かく刻み、大鍋に入れる。
レノは入港した防空艦と政府軍の動きをなるべく考えないよう、作業に集中した。
……どうせ、国もネミュス解放軍も、俺たちがどう思おうと関係なく戦うんだ。
「場所と材料、ありがとうございました。これ、濃縮傷薬です。骨折は治せませんけど、普通のより大きい怪我に効きます」
薬師アウェッラーナが、プラ容器に詰めた濃い緑の軟膏をひとつずつ差し出す。
調理師たちは、胸の前で両手を振った。
「いやいや、いいよ。どうせ役所のモンだ」
「それに、私たちは他所から通勤してるから大丈夫よ」
「そいつが要るようなコトにならなきゃいいんだがな」
薬師アウェッラーナは何度も礼を言って台を片付け、調理の手伝いに回った。
夕飯が始まっても、防空艦には目立った動きがない。
帰還難民たちは夕日に染まる湖上を気にしながら、そそくさと食べ終え、それぞれの用に戻った。
日が傾き、レノは明るさが失われつつある食堂の天井を見上げた。
帰還難民センターの食堂には、蛍光灯がなかった。一部を除いて電気を引いていないのかもしれない。
薬師アウェッラーナが小声で呪文を唱え、ラジオの把手に【灯】を点した。
「十六時まで、FMクレーヴェルのニュースがないから、ちょっとだけ国営放送を聴いてみたんです」
クルィーロが食器洗いから戻るのを待って、ロークがメモを見ながら言う。
「ネミュス解放軍は、敵対しない限り、一般市民には何もしないそうです」
「門はずっと開けてるんだって」
「心配な人は、明るい間に出て行ってねって」
アマナとティスが続き、レノは三人を見回して質問した。
「本格的な戦闘は、まだ始まってないのか?」
ロークは首を横に振った。
「十六時のFMクレーヴェル……政府の公式発表じゃ、国会議事堂と議員宿舎、放送局と警察署の近くで戦闘が続いてるから、近付かないようにって言ってました。……そう言われてみれば、政府は避難所の情報は出してましたけど、門のことは何も言ってませんね」
メモした避難所の場所を読み上げてくれたが、レノたちには土地勘がない。どこが一番近いのかさっぱりわからず、どこへ行けばいいのか判断できなかった。
ロークは食堂の扉脇に避難所と戦闘区域のリストを貼り出したと言う。
どこをどう通れば、戦闘区域を避けて避難所や首都の外へ通じる門へ、安全に行けるのか。レノたちと同じで土地勘がないらしく、帰還難民センターに身を寄せる者の顔色は冴えない。
年配の夫婦は、パートの仕事を得てセンターの外にも行ったそうだが、近くの職場とセンターを往復するだけで、他の場所はわからないと言う。
今朝早く、パート先から「危険だから出勤しないように」とセンターに電話があったと言う。
今のところ、攻撃対象ではない場所の電話は無事だが、いつ流れ弾で電柱や交換局が破壊され、電話線が物理的に切断されるか知れたものではない。
クルィーロの父と連絡がつくまで、電話回線は無事でいられるのか。
幼馴染の兄妹をそっと窺う。
二人は眉間に皺を寄せてロークのメモを見詰めていた。
「地図ってもらえないのかな?」
「後で窓口の人に聞いてみようと思ってるんですけど、忙しそうでなかなか……」
いつも用意のいいロークは、既にそこまで考えてくれていた。
……俺より頭いいのかもなぁ。
レノはファーキルと行動を共にして、情報の重要性を思い知らされた。
タブレット端末を使いこなすファーキルが居なければ、もしかすると、北ザカート市から王都ラクリマリスまでの道程のどこかで、誰かが命を落としていたかもしれない。
そのファーキルは、まだ中学生だった。
ロークも高校生だが、星の道義勇軍のテロでゼルノー市が大混乱に陥る中、友達の安否を確認する為に家を出たと言っていた。
その時に持ち出したのが、このラジオだ。
レノには全くない発想だった。何か持って行こうと思い付いても、せいぜい、食糧と毛布くらいだ。
ロークのラジオと、ファーキルのタブレットで情報を得た時に、その内容を吟味してどう行動すべきか判断してくれたのは、ソルニャーク隊長だった。
彼は、半世紀の内乱中に生まれた大人とは言え、ゼルノー市よりずっと狭いリストヴァー自治区の住人だ。
年齢のことを差し引いても、同じ社会人とは思えないくらい、僅かな情報から様々なことを読み取り、行動の結果を予測して的確に導いてくれた。
二人の情報と隊長の判断があったから、ここまで生きて辿り着けた。
今、情報が足りないことで、みんなはどこへも行けなくなっている。
政府軍とネミュス解放軍、どちらの放送を信じていいかわからない。
……隊長さんだったら、ラジオの情報、どっちを信じるんだろう?
ここで後数日、身分証の再発行を待っても大丈夫なのか。
何もかも捨てて、身ひとつで今すぐ逃げた方がいいのか。
いい予想も、悪い予想も、レノには確度が全く読めない。
レノの服を掴むティスを安心させようと、笑顔を向けようとしたが、弱々しく頬が引き攣るだけで上手く行かなかった。




