619.心からの祈り
レノたちは、年配の夫婦と一緒に帰還難民センターを出た。
玄関からぐるりと建物を回り込み、食堂の前に立つ。
帰還難民センターは元々、港公園の駐車場だったらしい。アスファルトに駐車位置を示す白線が残っていた。
港公園を見渡すと、昨日は秋分祭のフリーマーケットであんなに賑っていたのが嘘のように静かで、人影はひとつも見えない。業者の屋台があちらにポツリ、こちらにポツンと簡易テントだけを残していた。
……昨日のでかいお兄さんたち、無事かな?
他人の心配どころではないハズだが、無人の展望台が目に入ると、同じ歌を歌った二人を思い出した。
その向こうで、彼らの歌が讃えた女神の涙……ラキュス湖がいつも通りの姿で静かに横たわる。どこまでも続く漣が、真夏よりずっと和らいだ光を纏って輝いていた。
「あんまり離れるのは心配でしょう」
「ここでお祈りしよう」
年配の夫婦に促され、レノたちはその場に跪いた。
「湖上に雲立ち雨注ぎ、大地を潤す。
木々は緑に麦実り、地を巡る河は湖へと還る。
すべて ひとしい ひとつの水よ。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
水の縁巡り、守り給え、幸い給え」
早く、母と再会できるように、クルィーロとアマナが父と再会できるように、レノは湖の女神パニセア・ユニ・フローラに心から祈りを捧げる。
戦争が始まる前は、習慣としてなんとなく朝夕、湖に向かって祈っていた。
今は違う。
祈りの詞の意味を一言一言噛みしめ、眼下できらめく湖水、レノと妹たち、母の繋がりを深く意識する。
湖上に雲立ち雨注ぎ、大地を潤す。
木々は緑に麦実り、地を巡る河は湖へと還る。
大いなるラキュスの湖水で結ばれたゆるやかな縁が、一刻も早く手繰り寄せられるように、全身全霊で祈る。
すべて ひとしい ひとつの水よ。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
故郷のネーニア島、通過したランテルナ島、フナリス群島、今立つネモラリス島。全てがラキュス湖に抱かれた島々だ。湖畔の国々も含めて全てが、女神パニセア・ユニ・フローラの【涙】から生まれた水で繋がっている。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
水の縁巡り、守り給え、幸い給え。
……母さんも、どこかでラキュスの水を飲んで生きてるんだ。
生きてさえいれば、いつか必ず、湖水で繋がる場所のどこかで再会できる。
祈りが確信に変わる頃、レノはやっと目を上げた。
水平線上にポツリと点が現れ、見る見るうちに船影を成す。
クルィーロと年配の夫婦も気付き、息を詰めて沖合に目を凝らした。
大人たちのただならぬ様子に、妹たちがそれぞれの兄の服を掴み、同じ方を見る。
「防空艦……」
クルィーロのかすれた呟きに、レノはピナとティスを抱き寄せた。
……えっ? ちょっと待って。アーテル軍の迎撃は?
ソルニャーク隊長たち星の道義勇軍が、武闘派ゲリラに協力して空軍基地をひとつ潰した。それでも、アーテル本土やランテルナ島には他にもまだ、基地がたくさんある。
ネーニア島南部のラクリマリス領には、アーテルの陸軍も侵入している。
クーデターの鎮圧を優先したのかもしれないが、迎撃に魔哮砲を使えなくなった今、戦力を国内に向けるのはあまりにも無防備な気がした。
あの日見た無人機の大編隊は、ラキュス・ネーニア家の当主シェラタンらが正規軍に協力して全て迎撃したらしいが、今は湖の民の旧支配者の力は借りられないだろう。
有力な分家のウヌク・エルハイア・ラキュス・ネーニア元将軍が、クーデターを起こしたのだ。
シェラタン当主がクーデターに加担していなかったとしても、ウヌク・エルハイア元将軍と敵対するとは思えない。
クーデター勃発後、シェラタン当主が沈黙を守っていること自体が、それを物語っている気がした。
入港した防空艦は、一隻だけだ。
港公園には相変わらず、人の姿はない。
ネミュス解放軍の迎撃が始まれば、クレーヴェル港と港公園が戦場になる。術の防護があるとはいえ、帰還難民センターのプレハブ建屋でどこまで守ってもらえるのか。
「えっと、そろそろ、食堂に戻ろっか? 夕飯の手伝いもあるし」
レノが声の震えをどうにか抑えて言うと、みんなは黙ってついてきた。
「あれっ? アウェッラーナさんは?」
ラジオを置いたテーブルで、ロークが一人で待っていた。
「お薬作るって、厨房の隅っこ借りてますよ」
「そうなんだ? じゃ、俺たち晩ごはんの手伝いに行って来るよ」
レノは、ティスをクルィーロに頼み、ピナと二人で厨房に入った。
「おっ、また手伝ってくれんのか。ありがとよ」
「さっき、野菜と干し肉が手に入ったから、そこそこのものができそうよ」
「ありがとうございます」
「ちゃんとしたもの食べると、気持ちが落ち着きますもんね」
兄妹揃って、厨房の職員二人に微笑を返す。
薬師アウェッラーナは調理台のひとつで傷薬を作っていた。いつもの薬より色が濃い。よく見ると、植物油ではなく、ラードとバターを使っていた。
普通の傷薬を作るのと同じ薬草にラードを加え、ドーシチ市の屋敷で数えきれないくらい聞いたのとは別の呪文を唱えていた。宙に浮いた塊を球形にして、今度はバターで同じ物を作る。
「あぁ、あの人は薬師さんよ」
「はい。知ってます。ここまで一緒に避難して来たんで……」
「あら、知り合いだったの」
調理師のおばさんは、お薬使うようなコトにならなきゃいいんだけどね、と呟いて夕飯の仕込みに戻った。
☆同じ歌を歌った二人……「577.別の詞で歌う」~「579.湖の女神の名」参照
☆空軍基地をひとつ潰した……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」参照
☆あの日見た無人機の大編隊/全て迎撃した……「307.聖なる星の旗」「309.生贄と無人機」参照
☆クーデターを起こした……「599.政権奪取勃発」~「601.解放軍の声明」参照




