605.祈りのことば
呪医セプテントリオーは、躊躇なく小さな扉に近付いた。金属の扉にも守りの術が施されているが、覗き窓などはない。ノックし、大声で呼ばわる。
「すみませーん! 開けてくださーい!」
扉に耳を押し当てて様子を窺う。
しばらく息を殺して待ったが、応答どころか、物音も聞えなかった。
数歩退がって扉の呪文を確める。【巣懸ける懸巣】学派の術はよく知らないが、そこに刻まれた力ある言葉を読めば、どんな術なのかある程度は推測できる。
どうやら、防壁と同じ【魔除け】や【耐火】【耐震】など守りの術だけのようだ。
……裏側に【消音】か【防音】が……いや、密閉できる部屋でなければ無理だ。第一、外の物音が聞こえなくなれば、危ないだろう。
傍らで待つ少女は落ち着いた様子で辺りを見回していた。
防壁の東はラキュス湖。
港がある筈だが、二人には船がない。【操水】で湖上を歩いて行くのは、身を守る手段のないサロートカが危険だ。下から魔物に襲われたのでは、ひとたまりもない。
防壁はゆるやかな曲線を描き、西側がどこまで続いているのかわからなかった。
畑と牧草地、草原のずっと向こうにツマーンの森が控えている。腥風樹を恐れた住人が締め切った可能性に思い到り、呪医セプテントリオーはこっそり身震いした。
「ここは街外れで、山へ行く人が居ない日は門番などを置かないのでしょう。他の入口を探しましょう」
呪医セプテントリオーが手を差し伸べたが、サロートカは首を傾げた。
「ここから見える所……西の方へ【跳躍】で移動します。畑に誰かいれば、話を聞けますよ」
「あ、あぁ、そう言うコトですか」
少女は足下に素早く視線を巡らせた。呪医もつられて視線を追う。クブルム山脈へ続く細い道の他は【護りの敷石】がなかった。
「今日は天気がいいですし、大きな街の近くは大抵、警備隊や自警団が駆除していますから、大丈夫ですよ」
サロートカが西に目を遣って小さく頷き、セプテントリオーの手を取る。汗で湿った小さな手は冷たかった。
術で跳んだ先は畑の手前。
西には麦の刈り跡が見渡す限り続くが、人の姿どころか、落ち穂を啄ばむ鳥の姿もなかった。
「誰も……居ませんね……」
サロートカの声が心なしか震える。
呪医は穏やかに声を掛けた。
「この辺りは麦畑で、収穫が終わって……もう二、三カ月経っているからでしょう。麦蒔きはもう少し後です」
「でも、何にも居ないなんて……前に農家のお手伝いに行ったことがあるんですけど、いつも鳥が居ましたよ?」
「きっと、落ち穂を拾い尽くしたから、鳥も居ないんですよ」
少女を安心させるより、自分に言い聞かせる。
……どんなモノが居るのか知らないが、早くここを離れれば大丈夫だ。
朝靄が薄れ、空の青さが先程よりはっきりしたが、雲雀の囀りひとつ聞こえない。
見える範囲の壁に門はなかった。
ゆるい曲線を描く防壁に沿って二度【跳躍】を繰り返し、やっと西門に出た。
門から伸びる道には、途中まで【護りの敷石】が敷いてある。二車線幅の農道の先には、茄子畑が広がっていた。畑の中で幾つか人影が忙しなく動く。どうやら、収穫作業をしているらしい。
「なんだか忙しそうですけど、あの人たちに話を聞くんですか?」
「門は開いていますから、街へ入りましょう。それより、設定は覚えていますか?」
「私は……えっと、空襲で身寄りを亡くしたゼルノー市民で、力なき民だけど、グロム市の遠縁を頼って行くところ……ですよね?」
「そうです。キパリース市に避難して、ラクリマリスへ行くと言う私と出会って、ついでに【跳躍】した、と」
事情を聞かれない限り、何も言う必要はないが、念の為に怪しまれ難い身の上話をでっちあげて、口裏を合わせた。
フラクシヌス教の聖地を擁するラクリマリス王国領で、正直にリストヴァー自治区の住民でキルクルス教徒だと明かすワケには行かない。
湖の民のセプテントリオーが一緒なら、よもやキルクルス教徒だとは思われないだろう。
「あなたが唱えたくなければ、それで構いませんが、短い祈りの詞は覚えていますね?」
「……はい。昨日、教えていただいたあれですね」
少女は一瞬、身を強張らせたが、すぐに頷いた。
「一応、おさらいしておきましょう。我ら すべて ひとしい 水の同胞。水の縁が幸いと結びつきますように……です」
サロートカは胸に手を当て、宙に浮いた詞を見詰めるような眼差しで頷いた。
「殆ど挨拶のように“水の縁が幸いと結ばれますように”と言う人も居ます」
「わかりました。それには、なんて返せばいいですか?」
「“善き縁が波紋のように広がりますように”……です。抵抗があるなら、単にお礼を言うだけでも大丈夫です」
サロートカは頷きかけたが、小さく息を呑んで湖の民の民の呪医を見上げた。
「でも、それって、湖の民の人が、湖の神様にお祈りする詞ですよね? 私、陸の民だから……」
「陸の民にも、パニセア・ユニ・フローラ様の信者は大勢いますから、大丈夫ですよ」
呪医セプテントリオーは、御名を覚えやすいようにゆっくり言った。
キルクルス教徒のサロートカは、少し安心したようだが、その瞳にはまだ不安が揺れている。
「主神フラクシヌス様への短い祈りは“秦皮の葉蔭で乾きから守られますように”で、返礼は“あなたの上にも緑陰がありますように”です」
「秋や冬でも、そう言うんですか?」
大地の色の瞳が、呪医には思いもよらない疑問を映す。
呪医セプテントリオーは生まれて初めて詞を意識した。
「えぇっと……そうですね。あなたが災いから守られますように、と言うような意味で言いますね」
「木の影で、ですか?」
「フラクシヌス様の大樹は、季節を問わず、大昔からずっと旱魃の龍を封じて、この地を乾きから守って下さっていますから」
小さな祈りの詞は、深く考えることなく挨拶同然で口にし、聞き流してきた。
問われなければ、全く考えなかっただろう。
呪医は四百数十年生きてきて、初めて祈りの詞の意味に思いを至らせた。
信仰を再発見したような新鮮な気持ちで、キルクルス教徒の少女を見る。
サロートカは、開け放たれた門から続く魔法使いの街をじっと見ていた。




