604.失われた神話
クブルム山脈の峠道で一夜を明かし、二人は南側のラクリマリス王国領へ抜けた。
……パニセア・ユニ・フローラ様、ありがとうございます。
呪医セプテントリオーは、サロートカを慮って心の裡で祈った。
登山道脇に木立の切れ目をみつけ、足を踏み入れる。樵の避難小屋と、ちょっとした作業をする為の小さな広場だった。
東へ目を向ける。眼下で朝日を受けるラキュス湖は、いつにも増して神々しく見えた。
西では、こんもりした森が朝靄に包まれて微睡む。鳥たちの鳴き交わす声が、目覚めの時を告げる。靄が晴れればもっと賑やかになるだろう。
……あの森のどこかに腥風樹が……!
王国軍時代の任務を思い出し、白衣の下で肌が粟立つ。
ネーニア島の南岸は遙かに霞んで見えず、勿論、かつて腥風樹と戦ったランテルナ島も見えない。
だが、最近数カ月を過ごした別荘の庭や、ファーキルを連れて何度も跳んだカルダフストヴォー市の北門前は、ありありと思い浮かべられた。【跳躍】の術を使えば、時を置かずそこへ行ける。
今の目的地は、ネーニア島と北ヴィエートフィ大橋で繋がるアーテル共和国領のランテルナ島ではない。
山裾から広がる森は、ネーニア島の東岸の手前で途切れ、僅かな平地が湖岸に沿って南へ続く。草原や畑を縫う道が、町や村を繋いでいた。手前には、防壁に囲まれた港町ノージが見える。
……再建されたのだな。
半世紀の内乱で壊滅的な被害を受けたノージ市は、呪医セプテントリオーの記憶より小さく見えたが、人の営みは同じ地に戻っていた。
街の東岸に目を凝らす。
靄が出ているせいか、それとも湖上封鎖の影響か、湖上に動く船影は見えなかった。
「今から、麓のノージ市の手前へ【跳躍】します」
呪医セプテントリオーは、緑の眼を傍らの少女に向けた。
朝靄に霞む風景に心奪われていたサロートカが、夢から醒めたような顔で呪医を見上げる。
「あの、でも、センセイ……知らないとこには行けないって……?」
「今、はっきり見えている場所には行けますよ」
針子のサロートカに右手を差し出す。少女は一歩近付いて呪医の手を取り、頷いた。
一度、リストヴァー自治区からクブルム街道までは跳んでいる。一晩守られて、魔術に対する恐怖心や嫌悪感が薄れたのだろう。
呪医セプテントリオーは、頷き返して呪文を唱えた。
「鵬程を越え、此地から彼地へ駆ける。
大逵を手繰り、折り重ね、一足に跳ぶ。この身を其処に」
結びの言葉の直後、一呼吸の間も置かず、目の前に高い壁が聳え立った。
サロートカが周囲を見回す。
二人が立っているのは、石畳が敷かれた街道だ。二、三人並べばいっぱいになる幅で、周囲は生い茂った草が緑の壁を成す。
振り向けば、先程まで居たクブルム山脈が遠くに見えた。
改めて、防壁に向き直る。
「魔法文明圏の都市は、魔物や魔獣の侵入を防ぐ為、防護の呪文を刻んだ壁に囲まれています」
呪医セプテントリオーが石組の防壁を指差すと、サロートカは彩色の施された文字に目を向けた。
「……上から二番目の緑の柄は、聖典に載ってるのと同じ……ですよね?」
「そうです。【魔除け】の呪文と呪印です。同じ術でも衣服と建築物では、使用する呪印が異なるそうです」
「そうなんですか。どうしてですか?」
当然の疑問に呪医は苦笑を返した。
「生憎、専門外なので詳しいことまでは知りません。服などを作るのは【編む葦切】学派、建物などは【巣懸ける懸巣】学派で、えー……術の系統が違うんです」
「センセイは、何ガクハなんですか?」
「私は【青き片翼】学派……術だけで傷を癒す……外科医のような学派です」
呪医セプテントリオーは細い鎖をつまみ、首から提げた銀の徽章を上げてみせた。針子のサロートカが首を傾げる。
「銀色なのに、青……なんですか?」
「青き片翼と白き片翼は、フラクシヌス教の神話よりも古い神話に伝えられる神獣です」
「シンジュウ……?」
「生命の綻びを繕ってくれるのだそうですよ。この抱えているのが綻びを縫う無限の針」
徽章の蛇は、片方だけついた鳥の翼を広げ、針に巻きついている。蛇は死と再生の象徴であり、翼は遠く高く飛ぶ力。青き片翼と白き片翼が二頭揃えば、命を繋いでどこまでも飛べると伝えられていた。
サロートカは神獣“青き片翼”を意匠化した徽章から目を逸らさず、疑問を口にした。
「センセイは……異教の神様の徽を持つの、イヤじゃないんですか?」
「異教の……?」
改めて言われるまで、全く意識したことがなかった。
つい今しがた自分の口で説明したにも関わらず、だ。
呪医セプテントリオーは、徽章を掌に乗せた。
この地が女神の涙に潤される以前の遙かな昔。
祭儀が失われた古の信仰が残した神話の断片。
……不思議なものだな。
その時代には、呪医セプテントリオーたち「湖の民」は何と呼ばれていたのか。いや、存在していたかどうかさえ、定かではない。
呪医は神獣を象った徽章から目を上げた。
サロートカはすっかり恐縮して、不安な眼差しで湖の民の呪医を窺う。取り消せるなら、さっきの質問をナシにしたいと言いたげな顔に微笑みかけた。
「そう言われるまで、異教の神獣だとは、全く意識していませんでした」
「えっ?」
サロートカの顔に安堵と新たな疑問がありありと浮かぶ。
「知識としては、頭にありましたが、心の中で自分の信仰と繋がっていませんでした」
「あの……私、ひょっとして、余計なコト……」
陸の民の少女が顔を曇らせる。
呪医は静かに首を横に振った。
「いえ、大丈夫ですよ。もう、人々の意識に上ることのない失われた神話ですから。私に限らず、誰も気にしていませんよ」
その時代の信仰は失われたが、いつ成立したかもわからない古い呪文は今に伝わり、人々の命を守っている。
……不思議なものだな。
長い歳月の間に多くの術が失われ、また新たに作られた。
古い術を古文書や口碑などの僅かな手掛かりから「再発見」する学派もある。彼ら【歩む鴇】学派の関心事は専ら、失われた術の復活で、当時の暮らしや信仰と魔術の関連などについては「記録の状況」や「術の手掛かり」として副次的に調査、保存しているに過ぎない。
……パニセア・ユニ・フローラ様たちご自身は、どんな神に祈ったのだろう?
フラクシヌス教の神々は、神格化された古代の偉大な魔法使いたちだ。
彼らは今尚、旱魃の龍を封じ、湖水を産み出し、この地の全ての生命を乾きから守り続ける。神格化された彼ら自身の【魔道士の涙】に残された魔力はとうに尽き、後はずっと、この地に住まう人々が捧げる魔力を補充して【涙】に掛けられた術を支えていた。
湖の民のラキュス・ネーニア家と陸の民のラクリマリス家は、給水と封印の要を管理することが元々の役割だった。
魔力の補充が途切れぬよう、要の【魔道士の涙】の役割が忘れ去られぬよう、伝えられた記録はいつしか神話になり、命を捧げた彼らは祈りの対象になった。
両家が神政を敷くのに然程、時を要さなかっただろう。
「さぁ、行きましょう。フラクシヌス教徒の暮らしを確かめるのでしょう」
「は……はい。でも、開けてもらえるんでしょうか?」
同じ地面に立つと、街の様子は全く見えなくなった。
高い防壁に付いた北口の扉は、民家の裏口程度の大きさだ。向こうに門番がいるかどうかもわからなかった。
☆学派=術の系統の説明は「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」にあります。




