599.政権奪取勃発
魔装兵ルベルは、ラジオの電源を入れ、机に向かって背筋を伸ばした。
昼間、帰還難民の女の子にもらった歌詞と、自分が書いた空覚えの里謡を書いた紙を並べる。
DJの軽妙な語りとノリのいい曲が一人の部屋に流れた。
今頃は、同僚も同じ番組に耳を傾けてくれているだろう。
窓の外は厚い雲に覆われた夜。
月も星もない空に街灯や警戒灯の光がぼんやり映る。
目を閉じて、音量を絞ったラジオに耳を傾けると束の間、ここが兵舎であることを忘れて平和を味わえた。
DJの読み上げるリクエスト葉書の祈りにも似た言葉に、戦争の終わりが見えないことを思い知らされる。
「次はみなさんお待ちかね、“故郷の調べ”のコーナーです。ネモラリス建設業協会の提供でお送りします。今日の故郷はアサエート村――」
ルベルは目を見開き、ペンを執った。手が滑って、驚いた生き物のように跳ねるペンを捕まえ、姿勢を正す。
「みなさん、こんばんは。リャビーナ市民楽団の里謡調査員オラトリックスです。今夜は出身者の合唱に代わって、素敵なゲストをお迎えしています」
聞き覚えのある女性の声が自己紹介した。
「ニプトラ・ネウマエです」
「アミエーラです」
二人目は、同僚がファンだと言う大物歌手の落ち着いた声。三人目の声は細く、やや聞き取り難かったが、今頃それどころではないリスナーが殆どだろう。
魔装兵ルベルは、同僚の喜ぶ顔が目に浮かび、頬が緩んだ。
「私の家族は半世紀の内乱で散り散りになりました。人伝に妹の一家が存命だと聞き及びましたが、居場所は突き止められませんでした」
息を殺して、大物歌手ニプトラ・ネウマエの声に耳を傾ける。
「でも、先日、やっと妹の孫娘に会えました。ラジオではこのコをご覧いただけないのが残念ですが、アミエーラは妹のフリザンテーマの若い頃そっくりなんです」
「僕も直接、お会いしたかったなー」
DJがタイミングよく、リスナーを代弁する軽口を叩いた。
「アミエーラは、私と妹と親友が三人で撮った記念写真と、私と妹の手帳、親友の手紙を大事に持って、戦禍を逃れて王都まで旅してきました」
「リスナーさんの中には同じ苦労をなさってる方が、大勢いらっしゃると思います」
DJが別人のように神妙な口調で言い添えた。
「魔法の道具で身元の確認もできました。妹には再会できませんでしたが、私たち姉妹の手帳に書き残していた歌が、私とアミエーラを引き会わせてくれました」
「手帳には別の歌詞が書かれていましたが、主旋律はアサエート村の里謡“女神の涙”と同じです」
オラトリックスの声にDJが続く。
「今夜は、里謡バージョンの歌詞でお届けします。それではみなさん、お聞き下さい。ソプラノ歌手オラトリックスさんと、ニプトラ・ネウマエさん、それにアミエーラさんの三人で、アサエート村の里謡“女神の涙”です」
前奏はなく、ピアノが控え目に伴奏する。
三人のソプラノ斉唱が夜気を縫う糸となって漂った。
「ゆるやかな水の条
青琩の光 水脈を拓き 砂に新しい湖が生まれる
涙の湖に沈む乾きの龍 樫が巌に茂る……」
ルベルは心の中で共に歌いながら、歌詞を目で追い、ペンの蓋を取った。
「この祈り 珠に籠め
この命懸け 尽きぬ水に 涙湛え受け この湖に今でも……」
紙に書いた歌詞は記憶通りだった。思わず息が漏れる。
知っている部分が終わり、ペンを持つ手に力が籠もる。
三人の歌声がひとつに重なり、ルベルの心を震わした。
「悲しい誓いと涸れ果てぬ涙 乾き潤し 満ちる
二度とは帰らない……」
不意に、何かが断ち切られた音と同時にノイズが走り、歌が聴こえなくなった。
「お、おいっ!」
我知らず腰を浮かし、ラジオを見下ろす。
選局のダイヤルは全く動いていなかった。
腰を下ろしてラジオに手を伸ばす。その途端、聴き慣れたアナウンサーの声が聴こえた。緊張を押し殺し切れない上ずった調子で捲し立てる。
「番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。たった今、入りました未確認の目撃情報によりますと、先程、国会――」
基地のサイレンが鳴り響き、音声が掻き消される。
ルベルは電源を切り、椅子を蹴って立ち上がった。
「首都クレーヴェルで政権奪取発生! 治安部隊はただちに装備を整え、所定の場所で点呼、その他の部隊は配転に備え、待機! 繰り返す……」
全館放送が腹にずしりと響く。
魔装兵ルベルは寝巻から軍服に着替えた。
刺繍された各種防護の呪文に魔力が行き渡り、身が引き締まる思いがする。
窓を開けると、夜風に乗って慌ただしい気配が届き、息を詰めた。
治安部隊に編入されれば、また、国民に武器を向けねばならない。
……クーデターだって? こんな時に、何考えてるんだ!
奥歯を噛みしめ、何の情報もない反逆者を怒鳴りつけたい衝動を抑える。
アーテル・ラニスタ連合軍との戦争で、今はネモラリス国民全体が、一丸となって立ち向かわなければならない時だ。
しかも、ネーニア島北部の一部の住民は難民化し、国外に流出していた。
ラクリマリスやアミトスチグマには、まだ大勢の難民が身を寄せている。
このまま国が亡われれば、彼らは本当に、帰る場所を喪うかもしれない。
今日、帰還したばかりのあの子たちは、首都が平和だと思えばこそ、命懸けで祖国へ戻ったのだ。再び国外へ逃れることになれば、どれだけ心をすり減らすだろう。
……誰が、何の為に?
頭が真っ白になり、何も考えられない。
窓を閉め、空転する思いを鎮めようと、机上に目を向けた。
歌詞の走り書きを手に取り、心の裡に歌う。
……ゆるやかな水の条
青琩の光 水脈を拓き 砂に新しい湖が生まれる
涙の湖に沈む乾きの龍 樫が巌に茂る
この祈り 珠に籠め
この命懸け 尽きぬ水に 涙湛え受け この湖に今でも
悲しい誓いと涸れ果てぬ涙 乾き潤し 満ちる
二度とは帰らない……
繰り返される放送に思考がぶつ切りにされる。“二度とは帰らない”ものが何だったのか、思い出せそうで思い出せない。
……政権が変わったら、今は友好的に難民を支援してくれてるアミトスチグマや、中立を保ってくれてるラクリマリスも、どう動くかわかんないよな?
正規軍の一部が蜂起したなら、理由は、アーテル本土を直接攻撃しないことに痺れを切らした……辺りか。
もしそうなら、全面戦争は避けられなくなる。
両国に挟まれたラクリマリス王国は、否応なく巻き込まれるだろう。いや、既に魔哮砲が逃げ込み、腥風樹の種子を蒔かれ、巻き込まれていた。
ラクリマリスが起てば、周辺国も黙ってはいない。
湖南地方……いや、フラクシヌス教を信仰する全ての国が、聖地を守る為に参戦すれば、ラキュス湖の畔には安心して暮らせる場所がなくなってしまう。
……湖北七王国は三界の魔物を抑えるのに精いっぱい。人間同士の争いには関与しないから、参戦はしないだろうけど、難民の受け容れも断るだろうなぁ。
各国の政府が国家レベルでこの戦争に介入しなくても、聖地に巡礼したことのある信者たちが個人で参戦するだろう。
そうなれば、アルトン・ガザ大陸のキルクルス教国がどう出るか。
ルベルは、胸に溜まった息を吐いた。
小声で歌い、先程の歌詞を心に刻む。
「悲しい誓いと涸れ果てぬ涙 乾き潤し 満ちる」の部分に続く「二度とは帰らない」以降は同じ旋律を繰り返す。覚えやすいようでいて、間違いやすい。
魔装兵ルベルは、扉が叩かれるまで歌い続けた。




