598.この先の生活
「母は、マスリーナ市で働いていて、あの日も普通に出勤して……安否はわかりません」
「言い方を変えれば、今、確認できますが、どうされますか?」
小学生のアマナも事態を理解して、可能性の低さに薄々覚悟はできているだろう。だが、僅かでも可能性があるとの希望が残っていたから、ここまで気力を保っていられたとも言える。
クルィーロ自身、もうダメだろうとの諦めの方が強い。
それでも、自分の口から出す言葉で確認を迫られると、喉が詰まって何も言えなくなってしまった。
……落ち着けよ。今更、俺が何言おうと事実は変わらないんだ。
係員たちは急かさず、静かにクルィーロの言葉を待っている。
確認係が戸棚を開け、紙コップと茶葉を出した。
香草茶の香気が身体の奥で固まった思いを解す。
クルィーロは、紙コップから立ち昇る湯気を見詰めて言った。
「俺たちの母さんは、生きています」
深皿の縁に近い水が起ち上がり、小指の太さの水塊が次々と中心に向かって倒れる。
クルィーロが思わず、水から左手を抜くと、波は蓋でも被せれらたように鎮まった。
……やっぱ、そうか。
項垂れるクルィーロに係員の淡々とした声が降って来る。
「ご家族だと確認が取れましたら、妹さんには同じ質問はしません。お父さんの連絡先はこちらでお調べして、後日、身分証と一緒にお渡しします」
クルィーロが涙を堪えて頷くと、係員は水に手を入れるよう促し、質問の続きをした。
頼りに出来そうな親戚や友人知人の有無、勤務先の状況、新しい仕事の目途……
これからの予定など何もない。
父に会えれば何とかなる。それだけ思って生き延びてきた。
武闘派ゲリラの手伝いをして間接的に人を殺してしまった。
安全な場所を求めて遠回りしてやっとここまで辿り着いた。
……今はもう、何も考えたくない。
聞かれないことには触れない。耳を塞いで蹲りたいのを堪えて、係員の質問にだけ答えた。
入れ替わりに呼ばれたアマナにすれ違いざま、笑顔を見せる。
「もうすぐ、父さんと会えるからな」
「ホント?」
笑顔で頷いてみせ、妹の背中を押す。
金色の絹糸のような髪と一緒に土色のリボンが揺れた。
……いつの間に着けたんだ?
クロエーニィエ店長がくれた【耐衝撃】の【護りのリボン】だ。頭の左右でふたつに分けて括り、あの店長と同じ髪型にしているが、小学生の妹にはよく似合っている。
クルィーロは苦笑して、待合の長椅子に身を預けた。
力ある言葉が読めなければ、不思議な模様入りの土色のリボン。
魔力がなければ単なる飾りだが、鞄の底で眠らせるよりは、女の子の髪を飾った方が、クロエーニィエ店長も喜ぶだろう。
待合室にレノたちの姿はなかった。
薬師アウェッラーナが廊下の先を見て言う。
「係の人が、一家族ずつ順番にって、次の部署へ連れて行きましたよ」
「そうなんですか。……ここで、お別れになるかもしれないんですね」
「そうですね。クルィーロさんたちのお父さんは首都にいらっしゃるんでしたね」
湖の民の薬師のやさしい微笑であの夜を思い出した。
空襲の炎に追い詰められた運河の畔で、ピナティフィダの同級生たちは、親兄妹と一緒に居た彼女に辛く当たっていた。
敵意と憎悪は、はっきり向けるが、直接には何も言わない。
批難がましい目を向けるだけで、直接の暴力は振るわない。
拒絶の態度で壁を作り、無言でピナティフィダを排除した。
少年兵モーフが問い質すまで、明確な攻撃はなかった。
大人たちはそれどころでなかったこともあり、憎悪を剥き出しにする中学生たちを窘められなかった。
狡猾で薄汚いやり口だった。
「お前だけ家族と一緒に居てズルい」
そんな理不尽極まりない嫉妬と羨望。
彼らのよくない感情が、闇の中から雑妖を呼び寄せた。
空襲の炎に焼かれたのではなく、自ら呼び寄せた雑妖の群と魔物に食われたなら、それはアーテル・ラニスタ連合軍のせいではない。
……あいつらが死んでだとしても、自業自得だよな。
「まぁ、身分証の再発行は二、三日掛かるって言ってましたから、その間はここの宿舎で一緒ですよ」
ロークが言って、ラジオを片付ける。
係員の話では、首都近辺の仮設住宅はもうどこも満室で、当面の仕事はみつかっても、住む所がみつからず、ここに留まる帰還難民も居ると言う。
逆に、仮設住宅には入居できたものの、仕事がみつからず、ここに食事だけしにくる帰還難民も居るらしい。
いずれにせよ、食うに困らないなら、その内なんとかなるだろう。
薬師アウェッラーナは引っ張りだこだろうが、高校生のロークに就職先がすぐ見つかるとは思えない。
仮設住宅がいっぱいなら、ふたりには住む当てがない。
ふたりとも、当分ここに居ることになるだろう。
クルィーロとアマナは、父の居場所が分かればそこへ。
レノたち兄妹も一緒に居られるよう、父に頼もうと思う。
こんな所で離れ離れになるなんて考えられなかった。
レノの腕前なら、この辺りのパン屋やパン工場などで、すぐに雇ってもらえるだろう。
アマナとエランティスは首都の小学校へ転入、ピナティフィダも中学に入り直して、多分、同じ学年をやり直すことになるだろう。なんせ、半年も学校に行けなかったのだ。仕方がない。
アマナが確認室から出ると同時に廊下の先の扉が開き、クルィーロ兄妹は次の部署に呼ばれた。




