594.希望を示す者
「主旋律は、こうです」
老人が鍵盤に指を走らせ滑らかに紡ぎ出したのは、アミエーラもよく知る曲だった。言葉もなくピアノの旋律に耳を傾ける。
最後の一音が静寂に溶けて消えると、オラトリックスが意外そうに聞いた。
「アミエーラさんも、ご存知なんですか?」
「はい。これ、『すべて ひとしい ひとつの花』ですよね?」
「えぇ。私も調査に伺った先で驚いたのですけれど、全く別の歌詞が付いた夏至祭の歌なんだそうですの。ほんの七百年前にできたそうなんですけど……」
そんな大昔のことをつい最近のように言われ、アミエーラは面食らった。
カリンドゥラがラゾールニクに険しい顔を向ける。
「私が呼ばれた理由はわかりました。残念ながら、以前からある里謡の旋律が、共和制移行百周年記念の曲に流用された理由は存じません」
「編曲した作曲家に、自分が作曲したと説明されたのですか?」
スニェーグの問いにカリンドゥラが目を閉じて遠い記憶を遡る。
アミエーラの視線が楽譜の上部に書かれた曲名に吸い寄せられた。
女神の涙――音符はわからないが、「すべて ひとしい ひとつの花」の旋律を思い浮かべながら、オタマジャクシの下に並ぶ歌詞に視線を走らせる。
……音数はぴったりなのね。
「……いえ、特に何か言われた記憶はありません。何も言われなかったから、編曲者が作曲したのだと思い込んだのでしょう」
「では、歌詞はいかがですか?」
カリンドゥラ……当時、平和だったなら「すべて ひとしい ひとつの花」を歌う筈だった歌手ニプトラ・ネウマエは、首を横に振った。
「作詞家の先生が途中で亡くなられたので……この夏至祭の歌詞は、初めて拝見しました」
アミエーラは再び譜面に目を向けた。
……キルクルス教の聖歌みたいに神様を讃えないのね。
遠い昔のできごとと、決意を謳う詩は、聖歌や賛美歌と言うより叙事詩のようだ。
強いて言うなら、挽歌だろうか。
物悲しい調べと歌詞は、生気溢れる夏至の日に歌うには少し湿っぽいような気がした。
「里謡をお伺いしたのは、ウーガリ山脈の東部……山の中にある小さな村です。空襲には遭っていませんから、私たちで歌います」
「ニプトラさんも、お付き合い下さるんですよね?」
オラトリックスの説明に続き、スニェーグが確認する。大伯母カリンドゥラが同意を示すと、スニェーグがアミエーラに顔を向けた。
「我々も『すべて ひとしい ひとつの花』の方を先に知って、歌詞の続きをインターネットで募集してるんですよ」
「あ、はい。知ってます。ファ……知り合いに見せてもらいました。えっと……動画で」
アミエーラたち移動販売店プラエテルミッサのみんなも、旅をしながら歌詞の続きを考えていたが、言葉がまとまらず、まだ一行も書けていない。
「この歌、アミエーラさんも歌えますよ。例の動画のパン屋合唱団の一員なんで」
ラゾールニクが付け加えると、神官と音楽家が一斉に驚きの目を向けた。
アミエーラは、どう言うつもりなのか、とラゾールニクに視線を送る。
諜報員はさらりと受け流し、悪びれもせず提案した。
「ニプトラさんとオラトリックスさん、それに彼女にも歌ってもらえば盛り上がると思うんですよ」
「いえ、あの、私、素人で、プロの歌手と一緒になんてムリです」
アミエーラは慌てて断ったが、他のみんなは残念そうな顔をするだけで黙っている。
ラゾールニクはわざとらしく肩を竦めて言った。
「確かに、君の本職は縫製職人で、歌手じゃない。でも、トラックで旅をして大変なできごとを乗り越えて、こうして親戚のニプトラさんと会えた。それが今、苦しんでる人たちを励ますメッセージになるんだよ」
「メッセージ?」
ラゾールニクが何を言っているのかわからない。
クリューチ神官が成程、と呟いて説明した。
「あなた方の存在そのものが、この戦乱で散り散りになった人々にとって、再会の希望を示す非常に力強いメッセージになるのですよ」
「歌の巧拙は関係ありません。あなたがニプトラさんたちと共に歌うことに意味があるのです」
もうひとりの聖職者ギームンにも熱っぽく言われ、アミエーラはますます困惑した。
ラゾールニクが畳み掛ける。
「いつもは歌う前に呼称だけ言ってもらうんだけど、人数少ないし、アミエーラさんには事情もちょっとだけ語ってもらいましょう」
「あぁ、それがいいでしょうね」
ピアニストのスニェーグが嬉しそうに頷き、断れない雰囲気が固まってしまった。
大伯母が小声で聞く。
「私と一緒に歌うのは、イヤ……?」
「あ、いえ、イヤとかじゃなくって、こんな素人が烏滸がましいって言うか……」
「ダメ?」
「ダメとかじゃなくて、私なんかが公共の電波に……」
「いいっていいって。難民キャンプで録音したの、全部素人の歌だけど、ラジオ局には苦情なんて来てないから」
ラゾールニクに言われ、完全に断れなくなってしまった。
……改宗しようとは思ったけど、まだちょっと心の準備が……
フラクシヌス教の聖職者の前では本当の理由を言えず、途方に暮れた。カリンドゥラは事情を知っているのに、助けてくれるどころか歌う方向へ話を持って行く。
……別の歌詞で、今まで歌ってたから大丈夫だと思われているの?
その途端、今まで歌っていた曲の歌詞が変わったくらいで、歌うのに抵抗を感じる自分がおかしいのではないか、との思いが涌いた。
ひとつの曲に二篇の歌詞。
たったそれだけのことだ。
しかもこの歌詞は神話――ラキュス湖地方の史実を述べただけの叙事詩で、神々を褒め称える言葉は全く出てこない。
……改宗……このくらいから始めるのがいいから、言ってくれてるのかな?
そっとカリンドゥラを窺う。大伯母は目が合うとにっこり微笑んだ。アミエーラが腹に力を入れ、背筋を伸ばして頷くと、大伯母は頷き返し、ラゾールニクに声を掛けた。
「収録はいつですか?」
「三人とも知ってる曲だし、できたら今日収録して、今夜オンエアしたいかなって……」
「随分、お急ぎですのね?」
「反響が大きくて、ラジオ局が時間枠広げて一度に二曲も三曲も出しちゃって、音源足りなくなっちゃったんですよ」
ラゾールニクが頭を掻き、今日収録できなければ、今夜の放送は以前の再放送になると言う。
オラトリックスも困ったような顔で笑った。
「それで今日は、他の方々が難民キャンプに行って下さってるんですの」
素人ばかりで練習と収録に時間が掛かり、そちらは今日中には無理だと言う。
「そうだったんですか。そう言うことでしたら、私たちも……頑張れそう?」
「……知ってる歌だから、多分」
カリンドゥラの問いに迷いなく答えられた。
……私には魔力があるんだから、今更引き返せないのよ。
話がついたと見て取った聖職者が口を開く。
「先程の話に戻りますが、この歌詞は教団で把握しているものではありません。フラクシヌス様を“樫”と称しているので、比較的新しい詩だと言うことまでしかわかりませんでした」
「オラトリックスさんが里謡を採取した村で独自に作られたもののようです。少し淋しい歌詞ですが、大神殿の評議会では問題ないとのことでしたので、放送して下さっても問題ありません」
陸の民のギームン神官に続いて、湖の民のクリューチ神官が捕捉する。
スニェーグとオラトリックス、ラゾールニクが声を揃えて礼を言った。
「では、早速ですが、確認の為に一度、通しで聴いて下さい」
スニェーグがピアノに向き直り、オラトリックスと視線を交わす。一呼吸置いて、よく知る旋律と初めて耳にする歌詞が響いた。
☆歌詞の続きをインターネットで募集してる……「305.慈善の演奏会」「348.詩の募集開始」「378.この歌を作る」参照
☆旅をしながら歌詞の続きを考えていた……「275.みつかった歌」「349.呪歌癒しの風」「510.小学生の質問」「511.歌詞の続きを」参照
☆本当の理由……「548.薄く遠い血縁」「549.定まらない心」参照
☆よく知る旋律と初めて耳にする歌詞……「531.その歌を心に」参照




