592.これからの事
ホテルの庭には、一段高くなった所に屋根付きの休憩所のようなものがあった。
「ちょっとそこの四阿で座って話しましょうか」
大伯母のカリンドゥラに促され、アミエーラは一緒に屋根の下へ入った。壁のない小屋で、八本の柱だけが屋根を支える。
……椅子とか立派なのに、どうして壁はないの?
ぼんやり考えながら腰を下ろす。
白い塀の向こうでラキュス湖が静かに横たわっていた。湾内に白い航跡を引いて魔道機船が入って来る。
カリンドゥラが、銀の懐中時計を見ながら言った。
「今日はこれから第二神殿で打合せがあるの。あなたは、どうする?」
「えぇっと……どう……?」
そう聞かれても、何をどうしていいかわからない。
アミエーラが困って首を傾げると、カリンドゥラは選択肢を提示した。
「私と一緒に打合わせに参加するか、先にネモラリス島の家に帰ってお留守番するか、大神殿でボランティアのお手伝いをするか、街を見物してもう一泊延ばして、もう少しここでゆっくり考えるか……色々あるけど、どうしたい?」
……今日はまだファーキル君がいるけど……どうしようかな?
ラクリマリス人の少年と二人きりになっても会話が続きそうにない。
それに、ファーキルは明日、やっと地元のグロム市に帰れるのだ。準備で何かと忙しいだろう。今も用があると言って一人で部屋に居る。
アミエーラが一人で王都を見物しに行って、迷子になったら戻れそうもない。
自分には魔力があると受け容れて、改宗しようとは思ったが、いきなりフラクシヌス教の大神殿の手伝いはハードルが高過ぎる。
先に家へ帰って一人で留守番するのは荷が重い。
……大伯母さんと一緒に居たいし、フラクシヌス教のことは少しずつ知りたいもの。
「一緒に行っていいですか?」
「あなたさえよければ、私は大丈夫よ。みんなにも紹介したいし」
カリンドゥラのやわらかな表情に安心して、アミエーラは聞く。
「何の打合せなんですか?」
「ラジオの収録よ」
「ラクリマリスの……ですか?」
「ネモラリスの民放ラジオよ。散り散りになった国民を励ます為に里謡のコーナーができて、その収録なの」
「ネモラリスのラジオなのに、王都で相談するんですか?」
アミエーラが首を傾げると、そっくりな顔が湖の彼方に向けられた。
ここからは、湾の対岸がぼんやり霞んで見えるだけだ。
「ラクリマリスやアミトスチグマに避難した人たちに地元の里謡を歌ってもらって、それを録音して放送してるの」
「素人の人が歌うんですか?」
「そうよ。歌う前に呼称を名乗ってもらって、“この人は避難先で元気にしてますよ”って言うお知らせも兼ねて」
「あぁ、それで中間にある王都で……」
アミエーラの納得に、カリンドゥラは満足げに頷いた。
「そう言うコト。その地方の人がみつからない時は、リャビーナ市民楽団の歌手が代わりに歌ってて、今回は私にも歌って欲しいって依頼が来たのよ」
「そうなんですか」
故郷の歌でどのくらい励まされるのか、効果の程は不明だが、外国へ避難した知り合いの無事がわかれば、確かに嬉しいだろう。
……私も、店長さんが無事だってわかったら嬉しいもの。
アミエーラがリストヴァー自治区を出てから半年以上が経った。
ファーキルが見せてくれたインターネットのニュースでは、バルバツム連邦やバンクシア共和国、それにキルクルス教団の支援を受けて、自治区の復興は飛躍的に進んだらしいが、そこに住む個人の様子までは見えない。
……店長さん、今どうしてらっしゃるかな?
祖母と親友のクフシーンカ店長は同い年だ。店長は祖母よりずっと長生きしてくれたが、いつお迎えが来てもおかしくない年齢だ。
悪い想像が働き、胸を締め付けられた。
「あなたは、自治区の外のお歌って知ってるかしら?」
質問した大伯母は、百歳近いが長命人種だ。店長にもらった色褪せた写真と変わらない姿は、十九歳のアミエーラと姉妹だと言っても通用する。
アミエーラは笑顔を繕って答えた。
「国営ラジオで少しだけ……」
ふと、ランテルナ島の拠点で耳にしたアーテルの歌番組を思い出す。あの女の子たちは、キルクルス教の聖歌に品のないアレンジを加えて歌っていた。
「里謡は、フラクシヌス教の神々を讃える歌もあるけど、平気かしら?」
微かな不快感が、カリンドゥラの質問で消える。
……天気予報の歌は、魔法の歌のアレンジだけど平気だったし、大丈夫よね。
頷いてみせると、カリンドゥラは肩の力を抜いた。キルクルス教徒だったアミエーラに気を遣っていると気付き、申し訳なさに言葉がみつからない。
カリンドゥラは初秋の日射しを受ける湖を見詰めたまま言った。
「フラクシヌス教の神々は、ラキュス湖畔に住まうこの世の生き物をみんな、分け隔てなく守って下さってるの」
大伯母は、肩を並べて座るアミエーラに目を向けた。
それは、他の人たちから聞いて知っている。頷くと、カリンドゥラは身を捻ってアミエーラに向き直った。
「だから、キルクルス教みたいな信仰の誓いはないの」
「じゃあ、どうやって改宗するんですか?」
キルクルス教は、五歳くらいになって、ある程度きちんと言葉を話せるようになると、教会で宣誓する。
祭壇に置かれた司祭用の聖典に片手を置いて、「私は“悪しき業”を使わず、智恵と知識の光に導かれ、聖なる星の道を歩みます」と聖者像と聖なる星の道に誓う。
宣誓が終われば、子供用の聖典と星型の砂糖菓子を与えられる。
弟妹が、宣誓できる年齢まで生きられなかったのを思い出し、名前さえ覚えていない気マズさに心の澱が揺れた。
「特に何も……そうね、強いて言うなら、湖を大切にして、時々、神殿へお参りに行くくらいね」
カリンドゥラの答えに昨日の参拝を思い出した。
この地に住まう人々は、ラキュス湖に守られているが、同時にラキュス湖を守っている。
神々に魔力を捧げ、代わりに水を受け取る。
この世の生き物は水なしでは生きられない。
「湖上に雲立ち雨注ぎ、大地を潤す。
木々は緑に麦実り、地を巡る河は湖へと還る。
すべて ひとしい ひとつの水よ。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
水の縁巡り、守り給え、幸い給え」
……ただ、ここに居るだけで……?
敢えて背を向けるのでなければ、フラクシヌス教の神々の恩寵は無限に与えられる。
いや、背を向けたキルクルス教徒にも分け隔てなく、惜しみなく、与えられていた。
「……わかりました」
……私たち、知らなかっただけでずっと、湖水の恵みに守られてたのね。
カリンドゥラは小さく頷いて湖に視線を戻した。
「今日の打合せで、歌詞と楽譜をもらって、日程とかを確認して、今夜じっくり読んで、明日は朝から練習」
「お邪魔でなければ、明日もご一緒させていただいていいですか?」
「大丈夫よ。ところで、フリザンテーマにもそんな他人行儀な話し方してたの?」
「えっ? いえ……あの、でも……」
カリンドゥラは眦を下げて言った。
「まぁ、すぐには無理よね。まだ出会ったばかりだし……ゆっくりで」
「は、はいッ! 頑張ります」
大伯母のカリンドゥラは苦笑しただけで、それ以上言わなかった。
☆アーテルの歌番組……「451.聖歌アレンジ」参照




