588.掌で踊る手駒
ティーラウンジへ降りると、針子のアミエーラと親戚のカリンドゥラの姿はなかった。
一人で紅茶を飲む運び屋フィアールカに声を掛ける。
「アミエーラさんたちは、お部屋に戻ったんですか?」
「お庭を散歩してるわ。用事、片付いた?」
「お陰さまで」
向かいに腰を降ろすと、いつの間にか傍に立っていた給仕にメニューを差し出された。思わず見上げる。
「お飲物をどうぞ」
「あ……えーっと」
給仕の上品な営業スマイルから逃れ、フィアールカに助けを求める。
「私が飲んでるこれ、おススメだそうよ」
「あ、じゃあ、それで」
「かしこまりました。すぐお持ちします」
給仕が下がるとホッと息が漏れた。燕尾服の後ろ姿は立派で、移動販売店の誰よりもいい身形だ。ドーシチ市の屋敷で散々見ても、まだ気後れしてしまう。
「私はあの辺、土地勘がないから案内してあげられなくて悪いわね。あ、ここの支払いは気にしないで。宿泊料の中に入ってるから」
運び屋フィアールカが先回りして質問を封じ、緑の瞳で返事を催促する。話を逸らすきっかけを失い、ファーキルは渋々礼を言った。
「いえ、ラゾールニクさんに頼んで下さってありがとうございました」
「ホントにありがたいと思ってるんなら、今から言う質問に答えてね」
にっこり笑ってみせたフィアールカは、給仕の営業スマイル以上に目が笑っていない。
……そらきた。
ファーキルが翡翠色の瞳を見詰め返して頷くと、湖の民の運び屋は聞いた。
「グロム市で何をする気なの? 情報収集と拡散なら、王都の方が便利でしょ。あちこちから人が集まって来るんだし」
「人伝の二次情報じゃなくて一次情報を拡散したいんです。腥風樹のせいで戦争に無関係なラクリマリス人が巻き込まれて、市民生活に悪影響が出てますって言う……」
「それはもう、マスコミがやってるコトじゃない。坊やが危険を冒さなくても、プロに任せとけばいいでしょ」
フィアールカの言うことは正しい。
思慮分別ある大人として、中学生のファーキルを諭す目はやさしかった。
……でも、俺が直接行くことに意味があるんだ。
給仕がティーセットを載せた銀のワゴンを押して来た。茶葉と蜂蜜の産地を説明し、優雅な手つきでカップに注ぐ。
湖水色のテーブルクロスの上に銀糸のレース編みが置かれ、水面に咲いた一輪の花さながらの美しさに目が釘付けになった。
……あ、これ【保温の鍋敷き】だ。
乗せた物を火を使わずに保温する魔法の道具。中心の模様は炎の呪印だ。いつだったか、魔道士の国際機関「蒼い薔薇の森」のサイトで見た。
素材は金属の糸なら何でもいいらしいが、銀糸を使っている辺りが如何にも貴族的に思えた。
ファーキルは煌びやかな文化に馴染めず、給仕が紅茶に蜂蜜を垂らしてかき混ぜるのを硬い表情で見守る。
給仕が遠くの壁際へ下がるのを待って、湖の民の運び屋が口を開いた。
「まぁ、止めたってあの時みたいに行っちゃうんでしょうけど……」
「フィアールカさんは、俺を心配してくれてるんですか? それとも、手駒が減るのがイヤだから言ってるんですか?」
運び屋フィアールカは、ゆっくり瞬きして口の端を歪めた。
「両方……って言ったら怒る?」
「いえ……利用してるのはお互い様だし……」
「あら、自覚はあったのね。じゃ、ハッキリ言わせてもらうけど、いい?」
何を勿体ぶるのかと、ファーキルは湖の民の目を見る。緑の瞳からおどけた笑いが消えた。
「坊やがイヤじゃなければ、広告塔になってもらいたいのよ」
「広告塔?」
「プロパガンダ。今、ネモラリスは魔哮砲の件で国内世論が二分されてるの」
「反対派の言い分を肯定して、国際世論に働きかけて、外堀を埋めろってコトですか?」
……そうやって、魔哮砲を使い難くして、戦争を早く終わらせたいって? 戦争はそもそもアーテルが仕掛けたのに?
フィアールカが緑の目を見開いて感心する。
「察しがいいのね」
「でも、それこそ、外国のマスコミがもうやってるコトじゃないですか」
「私たちの仲間が働きかけて書かせた記事もあるけど、この辺の報道機関のニュースは湖南語で書いてあるから、バルバツムやバンクシアじゃあんまり読んでもらえないのよ。ポータルサイトの翻訳記事は流れるのが早いし」
ファーキルは早口に囁かれた言葉に目を瞠った。
……でも、そりゃそうだよな。政治家も参加してるらしいし、フィアールカさんは元聖職者だし、協力者にマスコミと繋がってる人や、現役の記者が居たっておかしくない。
「いつの間にラゾールニクさんたちの仲間になってたんですか?」
「ずっと前からよ。例えば……坊やがくれた【跳躍】のお代は全部、アーテルの小麦相場の介入に注ぎ込んだわ」
「えっ……?」
高額で無茶苦茶な取引があってアーテル共和国の小麦相場が乱高下し、食品株を中心に株式相場も荒れたと言うニュースには見覚えがある。
ラクリマリス王国の湖上封鎖で輸入が滞り、アーテルはバルバツム連邦からの緊急輸入に頼っていた。
空輸できる量には限りがあり、価格の高騰は避けられない。既に市民生活に支障が出ていた。一部では暴動が起き、逮捕者や死傷者も出たらしい。
……人が死ぬレベルの経済攻撃……って、テロとどう違うんだ?
武力に依らず平和を目指すと言っていたラゾールニクの話は嘘だったのか。
死者は、暴動に巻き込まれた者だけでは済まないだろう。
小麦だけでなく、為替と株式の相場も乱調で、破算の絶望から自殺した個人投資家が、どのくらい出たのか。
中小を中心に食品関連企業にも悪影響が出ている。倒産や解雇が増え、職を失った人々はどうなるのか。
オリョールたち武闘派ゲリラの小規模なテロや略奪でも、個人商店は閉店に追い込まれ、死傷者を出していたが、フィアールカたちの経済攻撃は規模と範囲が桁違いだ。
一体、何人が自ら命を絶ち、これからどれだけの人が路頭に迷って餓死……或いは、魔物の餌食になるのか。
ファーキルは背筋に冷たいものが走り、ティーカップの紅い水面を見詰めた。
「知らない間に人殺しの片棒担がされてショックでしょうけど、これが戦争なのよ。キレイ事じゃ済まないの」
「……わかってます」
湖水のように冷たい声を浴びせられ、ファーキルは顔を上げられなかった。
……こんな怖い人が聖職者……あ、そうか。だから辞めたのか。
フィアールカの復讐はまだ始まったばかりなのだと気付き、何も言えなくなった。
湖の女神に仕えた神官フィアールカは、半世紀の内乱中、助けを求めて神殿に縋った人々の多くを助けられなかった、とこのホテルの支配人が言っていた。
フラクシヌス教の信仰では、この元聖職者が負った心の傷を癒せないのか。
ファーキルは、ティーカップに添えた手が震えるのに気付いたが、止められなかった。
「私は何年掛かっても、この地からキルクルス教を取り除く為に、ひとつの花の御紋を返上したのよ」
「聖職者として、フラクシヌス教の教えを広めるんじゃ、ダメなんですか?」
湖の女神パニセア・ユニ・フローラの紋章は青いヒナギクだ。恵みと幸福、協力の象徴を捨てて、キルクルス教徒を殲滅すると言うのなら、「悪しき業を用いるネモラリスを滅ぼそう」と言うアーテルと同じではないのか。
ファーキルが眼差しに批難を籠めて顔を上げる。
湖の民の目は凪いだ湖のように静かだ。
到底、復讐に心を囚われているようには見えない。
……そう言えば、オリョールさんとジャーニトルさんも、同じ目をしてた。
彼らは武闘派ゲリラに加わっていたが、何もかも失って荒んだ他のゲリラたちとは違っていた。
……何が違うんだろう?
「坊やの方がよく知ってるでしょうけど、キルクルス教の教義は矛盾と問題点だらけよ」
それには同意せざるを得ない。
ファーキルが頷いてみせると、フィアールカは紅茶を一口啜って話を続けた。
「この地にキルクルス教が伝来しなければ、ラキュス・ラクリマリス王国が崩壊することはなかったし、隣人との絆が壊れずに済んだのよ」
「でも……」
フラクシヌス教はラキュス湖の水を維持し、旱魃の龍を抑えることで地域の平和と安定を願うものだ。
水がなくては、誰も生きられない。
共通の……強大な敵がいることで、この地域の人々は団結している。
……でも、力なき民の祈りじゃ、女神の涙に力を与えられない。祈ったって仕方ないから、キルクルス教が伝わった時に改宗しちゃったんじゃないかな?
どんなに頑張っても、フラクシヌス教の社会では半人前扱いされているのではないか。
差別や排除はされないが、生まれた時から戦力外通告されたも同然の力なき民たちの心境は、想像がつくような気がした。
「アルトン・ガザ大陸ならいざ知らず、この地では魔法使いの助けなしで生きて行くのは無理なのよ?」
「それは、わかってます。魔法使いを邪悪だって決めつけて排除する教えが、お互いの生活を苦しくして、生き難くしてるのは……」
ただ守られるだけの「力なき民」――
ファーキルは、レノ店長の顔を思い出した。
彼は力なき民だが、パン職人として立派に働き、急に押しつけられた店長の肩書にもちゃんと応えて、みんなを引っ張ってくれた。
魔力のない祈りには、何の効果もないと知っていても、レノ店長も他のみんなもフラクシヌス教徒として神殿で祈りを捧げていた。
改宗しないレノ店長たちの気持ちは、信仰から離れてしまったファーキルには理解できない。
「骨身に沁みてるわよね? だから、そのことを発信して欲しいの。あのアイドルのコたちみたいに」
「それは、信者として、ですか? それとも“旅人”として、ですか?」
「任せるわ」
含みのある返事にファーキルはどうしたものかと考えた。
ティーカップに触れた歯がカチカチ音を立てる。蜂蜜入りの紅茶が喉を滑り落ち、やや動揺が鎮まった。
☆アーテルの小麦相場/ニュースには見覚えがある……「424.旧知との再会」「440.経済的な攻撃」参照。
「426.歴史を伝える」などで、フィアールカがちょくちょくタブレットをいじっていたのは、相場への介入をしていたから。
☆書かせた記事もある/人が死ぬレベルの経済攻撃……「285.諜報員の負傷」参照
☆湖の女神に仕えた神官フィアールカ……「535.元神官の事情」参照




