0006.上がる火の手
その第一報は患者がもたらした。
昼過ぎ、高血圧の老人が、血相を変えて待合室に駆け込んできた。
「戦争だ!」
待合室と受付の視線が、白髪の老人に集まる。
その叫びは、処方箋受付の奥にある調剤室にまで届いたが、大声に驚いただけだ。何を言ったのか、内容は聞き取れなかった。
老人が、何度も同じ言葉を繰り返す。
「戦争だ! 戦争! 戦争!」
中年男性が長椅子から立ち上がり、老人の肩に手を置いて宥めにかかる。
「じいさん、落ち着け。戦争はもうとっくの昔に終わってるよ」
「ちっ違う! 俺はボケてない! ラジオつけろ! ラジオ!」
老人が受付に怒鳴る。
事務の係長に促され、若い事務員が、防災用品の棚からラジオを引っぱり出した。電源を入れたが、電波状況が悪く、ノイズが酷い。
若い事務員は、ラジオを持って窓辺へ行き、アンテナを伸ばした。
「……武装蜂起……国民の……冷静に…………従って……」
雑音で途切れながらも、国営放送のアナウンサーの声が拾えた。
待合室の空気が凍りつく。
老人が、ひとつ大きく息を吐いて言った。
「……自治区の連中が、武装蜂起したんだ。街に火をかけてやがる」
患者も職員も、表へ飛び出した。
付近の住民も、家々の窓から身を乗り出して、湖の方を見ていた。
坂の下を見降ろすと、南東の方角に煙の柱が何本も上がっている。
「武装蜂起……」
「ホントに……また、戦争なの?」
「普通の火事じゃないのか?」
「放火でも失火でも、現に燃えてるんだ!」
「今の時期、風が強いからすぐ燃え広がるし……ヤベーよ……」
「武器なんか、どうやって手に入れたんだ?」
「知るかよ。自分で作ったんじゃねーのか?」
人々の口から様々な憶測が飛び出す。
陸の民の男が、【跳躍】の呪文を唱えた。心なしか震える声が、結びの言葉を呟くと、その姿がこの場から消えた。
湖の民たちも、口々に同じ呪文を唱える。
「鵬程を越え 此地から彼地へ駆ける 大逵を手繰り 折り重ね 一足に跳ぶ この身を其処に」
事務の係長は、病院へ駆け戻った。
ラジオからは同じ臨時ニュースが、繰り返し流れている。
アウェッラーナは丁度、術で薬を作っていて手が放せなかった。一人、調剤室に取り残された薬師の耳に、アナウンサーの緊迫した声が入る。
ゼルノー市南東部、リストヴァー自治区に隣接するグリャージ区で、複数の火災が発生。
避難した複数の住民の情報によると、自動小銃などで武装した集団が、住民を襲撃。リストヴァー自治区の住民が、武装蜂起したとのこと。
政府は、治安部隊を派遣するとともに情報の確認を急いでいる。
「国民の皆さまは、冷静に、身の安全を確保しながら、警察の指示に従って、避難してい下さい。繰り返します……」
戻って来た事務の係長は、そのまま廊下を走り、奥の院長室へ向かった。慌ただしい足音が遠ざかる。
完成した薬を容器に収め、アウェッラーナは受付の事務室に入った。
患者が数人、待合室に戻ってきた。不安に眉を寄せ、受付を覗き込む。
老婆は、アウェッラーナの姿にホッとした様子で言った。
「避難するにしても、お薬は要るからね」
「……そうですね。少々お待ち下さいね」
老婆を不安がらせないよう笑顔で応え、事務机の上をざっと見た。誰の分の処理がどこまで進んでいるのか、確認する。
「土竜さーん。お待たせしましたー」
渡すだけの状態だった患者の家紋を呼ぶ。
アウェッラーナは三度呼んで諦め、その患者の分をまとめて「保留」のカゴに入れた。
事務の係長が院長室から戻り、アウェッラーナと交代する。
「ありがとう。ここはもういい。今あるだけの素材を全て、傷薬にしてくれ」
アウェッラーナは指示に従い、調剤室に戻った。係長がラジオを待合室に向け、事務室と調剤室の間の戸を閉める。
魔法使いの薬師は、また一人になり、静かな調剤室で傷薬になる素材の在庫を確認した。
乾燥させた薬草の百グラム梱包が十七箱半、食用油千二百ミリリットル瓶は、未開封一本と残量三分の一が一本。薬草に対して油が極端に少ないが、これだけでも三百回分以上作成できる。
アウェッラーナは調剤台の上を片付け、掌大の素焼きの壺を並べた。
取敢えず、二十個だけ並べ、袋に半分残った薬草を全て皿に出す。
油の瓶を開け、右手に干した薬草を持ち、心を鎮めて呪文を唱えた。
瓶の中から植物油が起ち上がる。宙に漂う油に薬草を千切って入れながら、更に呪文を唱える。
薬草と植物油が術で結合し、霊的な性質が組み換わる。薬草が持つ治癒の力を引き出し、油の親和、浸透、熱の性質を結びつける。
呪文の詠唱が進むにつれ、薬草と油が溶け混じり合い、緑色の液体に変化する。
用意した小さな壺へ順に注ぎ、結びの句を唱えると、液体は粘度を得て、緑色の軟膏になった。
……大丈夫よ。大丈夫。だって、自治区の人は「力なき民」なんだし。
自治区民は誰も魔法を使えない。【跳躍】でいきなり、街の中心部に移動してくる心配はない。
船も、この辺りのものは全て、魔法を動力とする魔道機船で、魔法使いが動力室で魔力を供給しなければ、動かせない。
手漕ぎの木造船は小さく、輸送力は微々たるものだ。しかも、今の時期は飢えた魔物がラキュス湖を徘徊している。湖の民など、【魔除け】の術を使える者が同乗していなければ、魔物の餌食になってしまう。
湖を通って近道される心配も、多分ない筈だ。
政府の治安部隊が向かっている。道路が封鎖され、車も使えなくなるだろう。
……大丈夫、大丈夫。ウチも市民病院も大丈夫。市民病院の隣は警察署だし。もし、自治区民が来たって、きっと守ってくれる。
アウェッラーナは、何度も自分に言い聞かせながら、傷薬を作り続けた。