585.峠道の訪問者
焚火に炎が爆ぜる頃には、すっかり日が暮れていた。
あたたかいスープと堅パンで人心地つく。
「……この量では、一晩もたないかもしれませんね。拾ってきます、」
「私も……」
「いえ、何度でも言いますが、あなたはこの輪から出ないで下さい。視えるでしょう」
呪医セプテントリオーが【簡易結界】の外を示して立ち上がると、サロートカは息を呑んだ。言葉を失った少女を残して、薪を拾い集める。
……王国軍で数えきれないくらいの夜を野営で過ごしたが、焚火は……初めてだったな。
少なくとも、記憶にはない。
どのくらいあれば足りるのか計算できず、木立と結界を何度も行き来する。余っても、誰かここを通る者か、鳥が巣材に使うだろう。
だんだん【簡易結界】から離れ、峠道を少し戻って枯れ枝を拾い集める。
薪の束を抱えて九十九折りの角を曲がると、サロートカが立ち上がって誰かと話をしていた。
焚火から伸びる少女の影が揺れ、【簡易結界】の周囲を雑妖の群が完全に包囲している。この世の火の光は、雑妖をすり抜け、影を作らない。
焚火を挟んでサロートカと向かい合う人物は、少女より頭ひとつ分背が高いが、顔立ちが判然としなかった。
「まぁ。道に迷ったんですか」
「あぁ……寒い……」
地の底から吹き上がる風のような声に、呪医セプテントリオーは肌が粟立った。
サロートカが同情する。
「山は冷えますもんね。こっちで火に当たって下さい」
その者は、遠慮したのか動かない。
呪医セプテントリオーは薪を抱え直し、小声で【魔除け】を唱えながらゆっくり近付いた。結びの言葉を残し、改めてその者を見る。
雑妖が退き【灯】の光が届いても、その者の顔は黒い靄が掛かったように男女の別もわからなかった。
「あの……遠慮なさらず、どうぞ」
サロートカは呪医が戻ったことにも気付かず、安全であたたかい場所を勧める。
「戻りました」
「あッ……センセイ、おかえりなさい。この人、迷子になって困ってるんで、入れてあげてもいいですか?」
振り向いた少女の目には生気がない。
呪医セプテントリオーは結界内に薪を置くと、サロートカには答えず、全力で魔力を籠めて結びの言葉を唱えた。
「……現世の理、汝を守るッ!」
その者の憎悪が峠道を冷やし、雑妖を勢い付かせる。【魔除け】に弾かれた雑妖は、数倍に膨れ上がりながら焚火と【灯】の光が射さぬ暗がりへ逃れた。
呪医セプテントリオーが結界の端に立ち“迷子”を指差して【退魔】を唱える。
「撓らう灼熱の御手以て、焼き祓え、祓い清めよ。
大逵より来たる水の御手、洗い清めよ、祓い清めよ……」
その者は、底冷えする憎悪と悲しみを撒き散らしながら人の形を崩し、黒い靄となって逃げ遅れた雑妖を呑み込んだ。
「日々に降り積み、心に澱む塵芥、薙ぎ祓え、祓い清めよ。
夜々に降り積み、巷に澱む塵芥、洗い清めよ祓い清めよ。
太虚を往く風よ、日輪翳らす雲を薙ぎ、月を翳らす靄を祓え」
呪医セプテントリオーを中心に淡い光の漣が起こった。
能う限りの魔力を乗せた【退魔】が、場に立ちこめた悪意を浄化する。
光の漣が二度、三度打ち寄せる度に凝った憎悪が薄くなり、黒い靄が峠道から押し出された。雑妖が靄について行き、【簡易結界】の周囲から居なくなる。
呪医セプテントリオーは、輪の外へ出てもう一度【退魔】を唱えた。
影を生まぬ淡い光がひたひたと木立に広がり、雑妖を呑んだ無形のモノを更に木々の奥へ追いやる。
木立の中までは追ってゆかず、湖の民の呪医は【簡易結界】の内へ戻った。
「もう大丈夫です」
多分……と心の中で付け加え、自信のなさを笑顔で隠す。
呆然と立ち竦む少女は緊張を解かず、震える声で聞いた。
「今の……何だったんですか?」
「恐らく、山で亡くなった人の想いです。何人分の塊なのかまではわかりませんが……」
「人の想い……センセイが魔法でやっつけて下さったんですよね?」
「いいえ。【魔除け】と【退魔】で遠ざけただけで、直接どうこうしたワケではありません」
呪医セプテントリオーが、その者の去った夜の森を見遣ると、サロートカは肩を抱いて身震いした。【灯】と焚火の光が届かぬ先から、無数の目がこちらを見ている。
「火を絶やさないように交代で休みましょう」
針子の少女を先に休ませ、呪医セプテントリオーは無数の星が瞬く山の空を仰いだ。
呪医は自分に与えられた呼称の星「北極星」をみつけ、その冴え冴えとした輝きを見詰めた。
天の中央に座して北を教える星は、ほんの僅かにその立ち位置を変える。ラキュス・ラクリマリス王国軍の軍医だった頃は、野営中にこの星を見上げて交代の時間を計ったものだった。
聞いた話では、鯨大洋や鵬大洋を航海する船乗りはこの星で船の位置を測ると言う。
ラキュス湖の漁師や船乗りが夜に船を出したのは、セプテントリオーが知る限り半世紀の内乱中だけだ。
日のある内に遮る物のない湖面へ出ると、キルクルス教徒の戦闘機の爆弾や機銃掃射に晒された。
夜間は、魔物や魔獣が活気付いて危険だが、【魔除け】などである程度防げる分、魔法の射程外から襲い掛かる戦闘機より被害が少なかった。
……科学で武装した人間は、化け物より危険……いや、異なる信仰を持つ者を排除しなければならない、と言う思想に取り憑かれた者が危険なのだ。
生活の基盤が魔法であれ、科学であれ、人間であることに違いはない。
どんな経緯で成立した神を信仰しても、人間であることに違いはない。
どんな文明、どんな信仰、どんな民族集団にも様々な人が属している。
どんな集まりの中にでも必ず、いい人と悪い人が、階調的に存在する。
特定の集団が全て善人であることはなく、全て悪人であることもない。
属する集団で他人を裁くなど、愚の骨頂であると何故気付かないのか。
呪医セプテントリオーは、ファーキルが見せてくれたインターネットの情報と、諜報員ラゾールニクが語ったアルトン・ガザ大陸の様子、リストヴァー自治区の仕立屋の老婆の話を縒り合わせた。
盤石で絶対不変な教えなどない。
人々が気付かぬうちに、時代に合わせてほんの僅かに変化する。
北極星がその位置を変えるように。
道を示す光を見誤れば、船は遭難してしまうだろう。
フラクシヌス教は、三界の魔物との戦いの頃、信仰が揺らいでラキュス湖が水位を下げた。主神の秦皮が枯れ、代わりに樫が植えられてどうにか事なきを得た。
呪医セプテントリオーのような一般の信者は秦皮も樫も変わりなく、主神フラクシヌスとして崇めるが、聖職者たちやラクリマリス王家の人々はどう思っているのか。
キルクルス教は、聖典の成立過程で既に聖者キルクルス・ラクテウスの教えが変質してしまったらしい。
直弟子の記録でさえ、聖者の教えを正しく伝えられていない。
時節に合わせて都合よく解釈を変え、時の権力者に阿った結果のひとつが、アルトン・ガザ大陸南部の植民地支配で、そこから、このチヌカルクル・ノチウ大陸に波及したのが民族自決の思想だった。
……それがなければ、今でもラキュス・ラクリマリス王国は存続していたのだろうか。
そして、今も人々を魔物や魔獣の襲撃から守る騎士団の一員として、軍医を続けていたのか。
呪医セプテントリオーは、答えのない問いを交代の時間まで考え続けた。




