584.丸洗いの魔法
サロートカは膝を抱えて蹲っていたが、足音に気付いて顔を上げた。安堵に頬がゆるむと同時に涙がこぼれ、慌てて顔をこすって誤魔化す。
呪医セプテントリオーは気付かぬフリで【簡易結界】の中心に石を置き、【操水】で手と石を洗った。汚れを吐き出した水を沸騰させ、すぐに冷却する。
水塊の一部が生き物のようにするりと瓶に入るまでの一部始終を大地の色の瞳が瞬きもせずに見ていた。
「怖いですか?」
「えっ……い、いえ……不思議だなって思って……」
「そうですか。力ある言葉で水に命令したんですよ。手と石を洗って、高温で殺菌して、そのままでは瓶が割れてしまうので、冷却してから片付けました。浮いている水には、待機を命じています」
何をどうしたのか、ひとつずつ説明すると、針子の少女サロートカは何度も頷き、思案顔で質問した。
「ひとつの呪文で全部できるんですか?」
「いいえ。前半は同じですが、後半に命令を折り込んでいます。その辺は術によって違います。この【操水】……水に命令する術は、比較的自由に命令を組込めますが、呪文を一言一句変えられない術の方が多いですね」
「そうなんですか」
サロートカが思案顔で黙り込む。
呪医セプテントリオーは腰を下ろし、銅のマグカップに待機させた水の一部を注いでゆっくり口に含んだ。舌と頬の内側に水が行き渡る。潤いを得てやっと乾きに気付いた。
「あなたも汗をかいて気持ち悪いでしょう。洗いますよ」
「いえ、あの、えっと……」
「心配ですか? 溺れることはありませんよ」
「えぇっと……あの……服……は……」
蚊の鳴くような声でようやく、脱ぐことを気にしているのだと気付いた。
職業柄、滅多に異性として意識されることがない。
呪医セプテントリオーは少女の反応が新鮮だったが、同時に何とも言えない悲しみが込み上げ、苦笑した。
「服を着たままで結構です。力ある民は大抵、洗濯と入浴を同時に済ませます」
呪医セプテントリオーはサロートカを立たせて【操水】を唱えた。加温した水を針子の手に触れさせる。少女の手が熱湯に触れたような勢いで引っ込んだ。
「熱かったですか?」
「えっ、いえ、あの、あったかいのが……びっくりして……」
「温度もある程度、調節できるんですよ。このくらいでいいですか?」
サロートカが、今度は逃げずにぬるま湯の表面を撫でて頷いた。
「頭から順に洗いますね。怖かったら目を閉じていて下さい」
針子の少女は首を横に振って髪ゴムを解き、湖の民の呪医を見詰めた。
呪医が水に命じて、彼女の髪を覆わせる。大地の色の髪が湯の中で揺れ、流れに翻弄された。一日の汚れやいつの間にか付いた泥などが水を濁らせる。
じっと見詰められながら洗うのは何となく気マズいが、呪医も視線を逸らさず、少女の頭髪を洗った。
「一旦、離しますね」
汚れが落ちた頭から湯を離し、【簡易結界】の外へ出す。木立の中に汚れを捨て、再び結界内に戻す。サロートカは湯の行方を目で追い、次はどうされるのかと身構える。
「顔と、首から下も洗います」
「……お願いします」
サロートカが直立不動の姿勢で頷く。呪医セプテントリオーは、いつも自分を洗う魔法で他人を洗うのが何となく不思議な気分だった。
少量の湯で顔を洗い、汚れを捨てる。分離した湯を元の塊に合流させて、首から下は蛇が巻き付くように水流を這わせ、体表と衣服を同時に洗った。汚れを捨ててはまた湯を這わせ、三度目で声を掛ける。
「終わりましたよ。お疲れ様です」
「あ、い、いえ、あの、私、立ってただけですし、センセイの方が魔法いっぱい使ってお疲れですよね? 薪拾い、行ってきます!」
「待って下さい」
慌てて【簡易結界】を出て行こうとする少女の腕を掴む。
「今から術で火を熾します」
その一言でサロートカが足を止め、解放された手で艶の増した大地の色の髪を髪ゴムで束ねた。
呪医セプテントリオーは細い枝を手に取り、石の表面に円を描いた。枝が削れ、粉がうっすら軌跡を残す。その中心に枝先で触れ、いつもよりゆっくり、はっきりした発音で呪文を唱えた。
「日輪の小さき欠片 舞い降りよ 輪の内に 灯熱 火よ熾きよ」
円の内側に沿って炎の壁が生まれ、火柱を成す。円内の枝は燃え尽きたが、外にはみ出す部分は焦げてすらいない。
大地の色の瞳が言問いたげに緑色の瞳に向けられた。
「輪の外は熱くならないんです。暖を取る為には……この火を枝に移して、他に用意した薪に……」
サロートカの服に【耐寒】がないことをすっかり失念していた。
「でも、ここ、湿った落ち葉がいっぱいで……」
「無理そうですね。深く掘れば土が出るのでしょうが、道具がありません」
「魔法でも、無理なんですか?」
言ってからバツの悪そうな顔をされ、呪医セプテントリオーは弱々しく微笑んだ。
「魔法でなんでもできるワケではありませんが、使いようですね。先程の【操水】で落葉をどけて、地面を乾かせますよ」
「じゃあ、その間、薪拾いを……」
「危険です。私が拾ってきますから、ここに居て下さい。スープを作ってくれませんか?」
銅のマグカップふたつに水と干し肉のかけら、乾物の野菜を少し入れ、半分だけ円内になるように置く。
「温まるのは円内だけなので、スプーンで混ぜて待っていて下さい」
水の残りを一旦捨て、呪医一人で木立に分け入る。
かなり日が傾いてきた。【灯】を点した小枝をポケットに挿し、枯れ枝を拾い集める。一抱え分をひとまず【簡易結界】の輪の内に下ろし、もう一度、窪地へ降りる。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
湿った土に集まる雑妖や弱い魔物を追い散らし、【操水】で水を掻き集める。この世ならぬモノたちは、すっかり乾いた地面を不快げに見遣り、森の奥の闇へ紛れた。
水塊を連れて戻りながら、更に落ち枝を拾う。
薮蚊だけでなく、辺りに漂う旨そうな匂いに魅かれた雑妖も集まっていたが、【簡易結界】に阻まれサロートカに近付けないでいた。
呪医セプテントリオーが戻ると、弱いモノたちは【魔除け】を恐れて道を開ける。




