583.二人の旅立ち
クフシーンカ店長がサロートカに手伝わせ、手早く荷物をまとめる。
古着を解いて拵えたリュックサックふたつに保存食と水の瓶、銅のマグカップを詰める。皺だらけの手が、古着の中から比較的マシなコートを引っ張り出して針子の少女に着せた。
店長は最後に、食卓の分厚い聖典を手に取り、リュックに入れた。
「少し重いけど、持ってお行きなさい」
サロートカは、膨らんだリュックを背負って力強く頷いた。
「店長さん、今までありがとうございました。大事な聖典……お返しできなかったら、ゴメンなさい」
「今からそんなコト言ってどうするの。ちゃんと見て、確めて、ここに帰って来なさい」
呪医のリュックには、三通の封筒と保存食、空き瓶が一本入っていた。飲料水は自治区では貴重品だ。自力で調達できるから、と断った。
治療の報酬にもらった古新聞は全て読み終え、置いて行く。
「私のことは心配しなくていいから、若いあなたにしかできないことを精いっぱいなさい」
クフシーンカ店長が針子の肩に枯れ枝のような手を置き、キルクルス教の祝福を与える。
「幸いへ至る道は遠くとも、日輪が明るく照らし、道を外れぬ者を厄より守る。
道がひととき闇にあろうとも、月と星々の導きを見失わずば、夜明けに至る」
二人は固く抱き合い、どちらからともなくそっと身を離した。
「元気でね」
「はい。店長さんも、お元気で。それじゃあ……」
「待って下さい」
サロートカが店の玄関へ行こうとするのを、呪医セプテントリオーは呼び止めた。小さく首を傾げる少女に一歩近付き、手を差し伸べる。
「術で移動します」
サロートカは身を強張らせたが、息を抜いて湖の民の魔法使いに歩み寄った。湖の民の呪医は冷たい指先にそっと触れ、力ある言葉で呪文を唱える。
「鵬程を越え、此地から彼地へ駆ける。
大逵を手繰り、折り重ね、一足に跳ぶ。この身を其処に」
軽い目眩に似た浮遊感の後、二人は木々に囲まれた広場に立っていた。風が、瑞々しい葉と湿った落ち葉の匂いをかき混ぜて吹き抜ける。
呪医が手を離すと、サロートカは戸惑った目で広場を見回した。分岐の広場には、隅に石碑がある他は何もなく、二人の他に人の姿はない。
夜の間に雨が降ったのか、地面が濡れて大量の薮蚊が二人に群がった。
「ここは……?」
「クブルム街道の東の端……北へ下れば自治区、西はゼルノー市のピスチャーニク区やネーニア島の西端、北ザカート市まで続いています」
針子の少女は蚊を払いながら、広場の西へ目を遣った。
この夏、自治区民の有志が掘り起こしたお陰で、土砂も落ち葉も積もっていない。石畳に刻まれた【魔除け】などの呪文と呪印は、何も知らなければキレイな模様に見えた。
「私はこれから山を越えて南のラクリマリス領へ行きます。引き返すなら、今の内ですよ」
「いいえ。行きます。足手纏いになるようでしたら、置いて行って下さい」
きっぱり言ったサロートカの目には、決意と怯えが入り混じる。
木立の影で雑妖が薄汚い霧となって漂うが、この広場から伸びる石畳の街道には流れ込んでいなかった。
南への道は土砂と朽木、落ち葉などで埋もれたままだが、壁でもあるかのように雑妖が避けている。敷石に施された【魔除け】などの術が、地脈の力や通行人の魔力を使って発動している為だ。
「そうですか。この先、道がどうなっているかわかりませんが、日没前に麓へ出られるよう、頑張りましょう」
呪医セプテントリオーは、降り積もった落ち葉や土砂で一段高くなった南への街道によじ登った。
サロートカも、木の枝を掴んで後に続く。
クブルム街道に往来がなくなって三十年近く経つ。
上り坂はすっかり埋もれているが、その下の敷石に掛けられた術は失効しておらず、雑妖が居ない場所を選んで通れば迷う心配はなかった。
やや急な斜面を這い上がる道を無言で上る。
仕立屋から跳んだのは、午後の茶の時間だ。
まだ九月とは言え、山の夜は冷えるだろう。少なくとも、見通しの利く所までは行きたかった。
呪医セプテントリオーが薮を避け、街道を外れると、彼の通り道から薄汚い霧が退いた。
「どうして……」
サロートカが息を切らせ、質問を飲み込む。冬物のコートを着て初秋の山を歩いたせいで汗だくだ。
キルクルス教徒の疑問を察し、呪医セプテントリオーは街道に戻って立ち止まった。
「この白衣は、同じ色で【魔除け】など身を守る呪文が刺繍してあります」
裾をつまんでみせると、針子の少女はそっと指でなぞって頷いた。
「聖典に載ってた祭装束の刺繍と同じ……」
「そう言うことです。私は湖の民で魔力を持っていますから、これを着ている限り、雑妖や弱い魔物からは守られますが、あなたは全くの無防備です。私とはぐれても、決して街道を外れないように気を付けて下さい」
「……気をつけます」
サロートカが神妙に頷き、二人は先を急いだ。
山歩きに慣れない二人の足では、峠に差し掛かった辺りで日が暮れてしまった。濃くなった木々の影で雑妖が勢いを増し、形を成し始める。
呪医セプテントリオーは、半ば埋もれた石碑をみつけて足を止めた。途端に薮蚊に襲われ、手で顔の辺りを払う。
石碑は峠の南北を指し、北はゼルノー市、南はノージ市。地名の下には距離表示もあるが、判読できなかった。
「今夜はここで休みましょう」
「もう少しで、下りですよね」
「無理に先へ進むより、暗くなる前に野営の準備をした方が安全です」
サロートカは残念そうに道の先を見遣ったが、それ以上言わずに荷物を下ろした。呪医も荷物を降ろし、枝を拾って地面に大きく円を描く。
「此の輪 天なり 六連星 満星巡り 輪の内 地なり 星の垣 地に廻り 垣の内 呼ばぬ者皆 立ち去りて 千万の昆虫除けて 雑々の妖退け 内守れ 平らかなりて 閑かなれ」
「何をしたんですか?」
「気休め程度ですが、【簡易結界】を張りました。街道にも【魔除け】がありますが、薮蚊などの虫は除けてくれませんからね」
「そう言えばそうですね」
サロートカが、蚊に刺されて凸凹になった手の甲を掻いて頷く。
「魔物や魔獣に対しても、何もしないよりはマシです」
「そうなんですか。ありがとうございます」
「水の調達と、焚火の準備をします」
呪医セプテントリオーは空き瓶を置いて【簡易結界】を出た。サロートカが腰を浮かす。呪医は蚊を払う手を止め、力なき民の少女を座らせる。
「もし、私が戻らなくても、結界の効力は明日の日頃まで持続します」
みなまで言わず、呪医は木立に分け入った。白衣の【魔除け】で目鼻がはっきりし始めた雑妖を蹴散らし、薮蚊が群がる窪地へ降りる。
落ち枝で地面に円を描き、【操水】で円内の水を集めた。
ついでに汗だくになった身体を洗ってスッキリしたところで、改めて地面に視線を走らせる。水を抜いた所だけが乾いて明るく見えた。枝葉の間から射す黄昏の光はもうかなり弱い。
呪医の周囲だけが【魔除け】の淡い光で薄紙一枚分程、明るかった。この光は霊視力を持つ眼には視えるが、影は成さない。
掌二枚分程度の平たい石を拾い、地面から抜いた水塊を連れて一旦戻った。




