582.命懸けの決意
針子見習いの少女サロートカは、クフシーンカ店長が手紙を認める間、熱心に聖典を読んでいた。時折、食卓の向かいで新聞を読む呪医セプテントリオーに質問する。
「センセイ、これも何かの呪文なんですか?」
少女は、聖典の「星道記」――聖句とキルクルス教の奥儀を記した技術が記された章の内、技術書部分を指差している。祭の衣裳の裾模様は、どうみても力ある言葉の羅列だ。
質問する少女の眼差しからは、緑髪の湖の民への恐怖がすっかり消え、代わりに好奇心とキルクルス教会への不信が揺れる。
「これも、【魔除け】ですね」
呪医セプテントリオーは、聖典に記された言葉に魔力を乗せて唱えてみせる。読み終えた途端、呪医を中心に真珠色の淡い光が広がった。
「単語の間には、力ある言葉の文字ではなく、魔力を巡らせる呪印が描かれているようです。生憎、私は【編む葦切】学派の術を殆ど知りませんので、呪印の詳しい効果まではわかりませんが……」
「いえ、ありがとうございます」
湖の民の呪医は、ついでに力ある言葉――自然言語とは全く異なる魔力の制御符号を訳してみせた。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る……湖南語に訳すと、大体こんな意味ですよ」
針子の少女の目が見開かれる。
「……それ、そのまま……聖句です」
震える手がもどかしげにページをめくり、技術書の手前に記載された聖句の箇所を開く。そこには確かに、湖南語と共通語で同じ言葉が記されていた。
少女は深呼吸して気持ちを鎮め、先程の縫製技術書のページに戻った。
「魔力のある人がこれを着たら、さっきの魔法が掛かるんですね?」
「そうです。力なき民でも、【魔力の水晶】やサファイアなど魔力を蓄積できる宝石類で外部供給を受ければ、発動しますよ」
「えっと……それは、えっと……魔力を持たない無原罪の人たちも、魔法を使えるってコトなんですか?」
針子の少女は、聖典に目を向けたまま声を震わせた。精いっぱい恐怖を押し殺したのだろうが、声には心の澱みが強く滲む。
「キルクルス教的な言い方をすれば……そうなりますね。実際、自治区の外にも力なき民の方々は大勢、暮らしています。彼らは身を守る為に【魔力の水晶】などを日常的に使っていますし、建物などにも、魔物などから守る為に組込まれていますよ」
……恐らく、装飾品の項目には、サファイアなどを使った補助具の作り方が記されているのだろうな。
クフシーンカ店長は、星道記の後半を修めた「星道の職人」と呼ばれる縫製技術者だ。
高位の聖職者や、特に信仰心の篤い技術者でなければ、聖典の五分の四を占める技術書部分を目にする機会はないと言う。
仕立屋の店長がキルクルス教会から特別に与えられた聖典は、目次を見せてもらった限り、「星道記」の内、聖句と祭の舞、服飾の項目は全文が掲載されているようだが、建築など他の項目については、簡単な説明しかないようだ。
午後のお茶の時間になってやっと、クフシーンカ店長は自室から出て来た。皺深い手が抱えた大型の封筒は分厚く、封蝋が施されている。
「これは、弟の事務所に置いていた資料です。弟本人か、アサコール党首にお渡し下さい」
クフシーンカの手が一番分厚い封筒を呪医の前に置いた。
「星の道義勇軍を唆してテロを起こさせ、その後どうしようとしていたのかと言う計画と、星の標を通じたアーテルとラニスタからの支援の内容、自治区外で隠れ暮らすキルクルス教徒の主な支援者の名簿です」
手にした情報の重みに力を籠めて、呪医セプテントリオーは封筒を持ち直した。その上に別の封筒が重ねられる。
「これは、自治区内の星の標の構成員の名簿と、自治区の在り方に関する派閥……現状維持派、ゼルノー市一部併合派と全部併合派、独立派とアーテルの属領化を望む派閥の現時点での一覧です」
「状況次第で流動する層は、当然居るでしょうね」
「えぇ……お恥ずかしい話、私も以前は一部を併合して欲しいと思っておりました」
自嘲した老女は皮肉な笑みを消し、最後に一回り小さい封筒を乗せた。
「こちらは、アミエーラ宛の個人的な手紙です。本人の手に渡りましたら嬉しいのですが、決してご無理はなさいませんよう」
「同じ人に託けますから、大丈夫ですよ」
呪医セプテントリオーは笑って請負い、布袋に三通の封筒を納めて席を起つ。
「少し早いですが、あまり長居してご迷惑が掛かるといけませんので、私はこれで……」
「待って下さいッ!」
サロートカが立ち上がり、弾みで椅子が倒れた。
二人が驚いて針子の少女を見る。
「私も連れてって下さい」
「何ですって?」
クフシーンカ店長の問いに針子の少女は決然と答える。
「聖典の深いところを読んで、確かめたくなったんです」
「私と一緒に……自治区を出て、何を確めるのですか?」
呪医の問いに、サロートカは椅子を起こすのも忘れて早口に答える。
「星の標の人たちとかは、やっぱり、聖典の解釈を間違ってると思うんです。聖者様は、三界の魔物みたいに邪悪な存在を造り出す魔法は、“悪しき業”だからダメっておっしゃったんじゃないかと……」
「それを自治区の外でどうやって確めるのですか?」
「魔法使いの人たちの街を見ます。星の標の人たちが言うみたいに、人を苦しめる邪悪な術が横行してるんなら……私は生きて帰れないでしょう」
「そうならない、と信じているのね?」
クフシーンカ店長の半ば呆れた声に、サロートカはしっかり頷いた。
「私が、あなたを山に置き去りにするとは思わないのですか?」
「センセイはそんなコトなさいませんよね?」
呪医セプテントリオーは、正面から信頼の視線を浴びせられ、苦笑するしかない。すぐに表情を引き締め、懸念を口にする。
「私にそんなつもりがなくても、魔物や魔獣に襲われて離れ離れになってしまうかもしれません。今は戦争中で、空襲の犠牲者などを喰らって、以前より力を付けた個体が多いのですよ」
少女は無言で湖の民の緑色の瞳を見詰める。大地の色の瞳には、揺るぎない決意が漲っていた。
「呪医がダメだと言っても、私が止めても、一人で山を越える気ね?」
サロートカは、クフシーンカ店長の諦め声に頷いた。
仕立屋の老女が、湖の民の呪医に肩を竦めてみせる。
「少しお時間をいただけませんか? 保存食を用意します」
「センセイ、山を越える所まで……足手纏いになるようでしたら、途中で置いて行って下さっても構いません。ホントに、途中でもいいので……」
「生きて帰れないかも知れないんですよ?」
「構いません。本当の信仰を確かめたいんです」
十五、六だろうか。
この年頃の少女なら、もっと他のことに情熱を傾けるのが普通だと思っていた。
……それとも、恋やお洒落に関心がなくなるくらい、ここの暮らしは酷いのか?
セプテントリオーの目には、サロートカの決意が奇異に映った。信仰心の薄い彼には、信仰の確認の為だけに年端も行かぬ少女が、一命を賭すとまで言ってのけることこそが、篤い信仰の恐ろしさに思える。
……いや、ここはキルクルス教の信仰を守る為に作られた自治区だ。私の知らない……信仰を中心とした暮らしを送る者にしかわからない何かがあるのだろう。
市民病院で対峙した星の道義勇軍の声が、呪医セプテントリオーの胸に今でも鮮やかに残っている。
「俺は、無理に戦わされてるんじゃない。自分の意志でここに居るんだ!」
「民主主義なんて言っちゃいるが、そんなものは単なる数の暴力に過ぎん」
「あんたはそう言われて、ほいほい改宗できるのか?」
「カネがなくても、元手がタダの魔法で何でもできるクセに」
「俺たちから、カネまで毟りやがって」
「湖の民も、王家と一緒じゃねぇか!」
「あんたらが、俺たちを『力なき民』呼ばわりして、家畜扱いするからだよ」
「俺たちは、捨てられたんだ! リストヴァーに生まれたってだけで、死ぬまでゴミ扱いされるなんて、まっぴらだ!」
キルクルス教徒の側からは“悪しき業”を使う邪悪な存在として避けられ、セプテントリオー自身もキルクルス教徒とはなるべく関わらないようにしていた。
王国軍の軍医だった頃は、救助で赴いた町や村でも極力、力なき民のフラクシヌス教徒の住民や兵士を介して、治療の可否を聞き出していた。
星の道義勇軍の三人と針子のアミエーラが、初めてまともに言葉を交わしたキルクルス教徒だ。
再会したソルニャーク隊長と、かつての患者メドヴェージ、少年兵モーフとはしばらく共同生活を送ったが、キルクルス教徒がどんな思いで自分たち魔法使いを見ているか、相変わらず漠然とした認識しか持てなかった。
……彼らは例外だと思っていたが。
クブルム山中で会った薪拾いの男性たちも、治療を望み山に来た怪我人たちも、この仕立屋の二人も、あの四人と似ている。
「私は……戦って身を守る術を知りません。本当に冗談ではなく、何かあってもあなたを置いて逃げるしかないのですが、構わないのですね?」
「それでセンセイが助かるなら、私はいいです。私の為にムリしてセンセイの身に何かあったら、その方がイヤです」
視線を外さず宣言され、呪医セプテントリオーも承諾せざるを得なくなった。
☆「……それ、そのまま……聖句です」……「118.ひとりぼっち」参照
☆市民病院で対峙した星の道義勇軍の声が甦る……「017.かつての患者」「018.警察署の状態」「019. 壁越しの対話」参照




