0059.仕立屋の店長
「おはようございます。アミエーラです」
仕立屋の戸は、声を掛けてすぐに細く開いた。
店長の皺だらけの手が無言で招く。アミエーラは、戸の隙間から店内へ身体を滑り込ませた。
店長が素早く戸を閉め、鍵と閂を掛ける。
鎧戸を降ろした店内は暗く、店長の懐中電灯が円い光を投げた。
トルソーの影が妙に伸び、魔物のように踊る。
「あなたが無事でよかったわ。お水が出る内に身体を洗って、着替えて、それから、ちょっと休みなさい。今日は仕事のことは気にしなくていいから、ねっ」
空いた手でアミエーラの頬を撫で、店長が早口に言う。
針子は店長の手を取り、目を伏せた。
「父とはぐれてしまって、しばらくお休みをいただきたいんですが……」
「ダメダメ! あなた、こんな若い娘さんが一人で捜しに行くなんて、絶対ダメよ!」
老いた店長は、針子の手を痛い程握り、激しく反対した。
「あの……でも……」
「お父さんは大人の男なんだから、無事だったら必ずここへ、あなたを捜しに来るわ。絶対に一人で焼け跡へ行っちゃダメよ。ここでお父さんを待ちなさい」
噛んで含めるように言い聞かされ、アミエーラは頷く他なかった。
店長はそれで安心したのか、語気を和らげ、再び入浴を勧める。
アミエーラは素直に甘えることにした。
仕立屋は奥で店長の自宅に繋がる。
冬は週一回、夏は二日に一回、店長は仕事の前に風呂を使わせ、着替えさせてくれる。アミエーラの「制服」として、季節毎に二着ずつ服も用意してくれた。
「服を作る者がみっともない恰好じゃ、お客さんに失礼ですからね」
それが店長の言い分だった。
バラック街では、真水も燃料も貴重品だ。
生まれてから一度も入浴したことのない住人が多い。
夏は水浴び、冬は濡れタオルで拭ければ、まだいい方だ。若い世代には、身体を洗う為だけに湯を沸かすことなど、想像もつかない者さえある。
「あぁ、朝ごはん、まだよね? お湯が沸くまで食べて待ってなさいね」
台所へ通され、言われるまま席に着く。
店長は、パンと香草茶、チーズ一欠片を手早く並べ、風呂の用意をしに行った。
台所は中庭に面する。
煙を防ぐ為に窓は閉じたままだが、カーテンは明かり採りに開けてあった。朝日が注ぐ中庭で、野菜と香草が微風に揺れる。
アミエーラは、人肌に冷めた香草茶を一口、喉へ流し込んだ。
煤を吸った痛みが引き、気持ちがスッキリする。
食欲はなかったが、拳大のパンを半分に千切り、機械的に口へ運んだ。もそもそ噛んでは、香草茶で飲み下す。味も何もわからない。ただ、自分の服や髪の焦げ臭さが、鼻に纏わりつく。
ここからは、通りの様子がわからない。
アミエーラがぼんやりしていると、店長が戻って来た。半分残ったパンと、手つかずのチーズに顔を曇らせる。
「あら、半分しか食べないの? おなか痛い?」
「大丈夫です。父が来たら、半分こしようと思って……」
「いいのよ。お父さんの分は、別に取ってあるから。みんなお食べ」
アミエーラの答えに、老婆は力なく微笑んだ。
「水は井戸があるし、食べ物も少しは蓄えがあるし、畑もあるから、遠慮しないでいいのよ」
「ありがとうございます」
伏し目がちに礼を言い、顔を上げずにパンとチーズを口に入れる。
老婆は、香草茶のおかわりを淹れると、アミエーラの前に座った。
「この際だから、みんな話してしまった方がいいのかしらね」
アミエーラが食べる様子を見守りながら、店長は独り言のように語る。
「あなたの母方のお祖母さん……フリザンテーマと私は幼馴染でね」
子供時代……ラキュス・ラクリマリス共和国時代は、ネモラリス島で過ごした。
内戦が始まったのは、二人がそれぞれ結婚してからだ。
民主主義が定着した数十年後、今度は民族自決の思想が広がり、「ひとつの民族にひとつの国」とのスローガンを掲げる政党が乱立した。
王国時代は、湖の民の有力な一族ラキュス・ネーニア家と、陸の民のラクリマリス王家の共同統治で、陸の民と湖の民の間に武力衝突が発生したことはなかった。
王政から共和制への移行が無血だったこともあり、当初は多くの国民が、こんなバカげた思想は麻疹のようなもので、すぐに終わるだろうと思った。
フラクシヌス神殿とキルクルス教会は、事態を静観した。
世俗の事柄に口を挟むと、ロクなことにならないからだ。
だが、在家の信者がそれぞれ政党を起ち上げ、地方の選挙区で多数の議席を獲得した。
ネモラリス島では、湖の民のフラクシヌス教女神派による「湖水の光党」、ネーニア島では、陸の民のフラクシヌス教主神派による「秦皮の枝党」、ラキュス湖南岸のアーテル地方では、力なき陸の民のキルクルス教徒による「アーテル党」が、急速に台頭した。
市民団体も、民族融和派と独立派が乱立し、街頭でビラを配り、あちこちで演説や集会を行った。
流行歌には、神を讃え、民族の誇りを称揚する民族主義的な歌詞が増え、子供たちも無邪気にそれを歌った。
共和制移行時に貴族の身分は廃止された。
貴族は多くの特権を奪われたが、旧王国時代に与えられた世襲の職と地位は失わなかった。それが、共和制への無血移行の条件だった。
そのことが、湖水の光党議員の手で暴露され、広く国民の知るところとなった。
王国時代の貴族は、王家と同じ「力ある陸の民」が大部分を占めた。
共和制移行後も、世襲によって高い地位を保つことは公然の秘密だったが、この暴露によって民衆の怒りに火が付いた。
ネモラリス島やアーテル地方では、力ある陸の民や、店舗への襲撃事件が頻発した。
平和を謳う市民団体の「これまで通り、民族や魔力の有無に関係なく、このひとつの国で共に生きよう」との主張は、貧しい民衆の手で叩き潰された。
数年後には、民族や宗教、魔力の有無で、公然と差別が行われるようになった。
湖の民が多いネモラリス島では、日増しに陸の民への風当たりが強くなる。
政治的・宗教的な主張をせずとも、商店が、異民族に物を売らなくなった。
異民族相手に商売すれば、過激派に焼打ちされる。不便を強いられる異民族の住民は、焼打ちを恐れる店主に強く言えなかった。
この頃はまだ、他の店へ行けば用が済むので、何とかなった。
街では、様々な主張の演説や集会、デモが行われ、反対勢力がそれを暴力で黙らせようとする事件が頻発した。
ふたつの家族は生命の危険を感じ、ラクリマリス王家の支配地域で陸の民が多く住むネーニア島へ移住した。
予想を裏切り、ネーニア島では湖の民、力ある陸の民、力なき陸の民で泥沼の戦いが行われた。しかも、力なき陸の民同士でさえ、キルクルス教徒とフラクシヌス教徒に分かれて争う。
魔法で戦う勢力と、銃や刃物で戦う勢力の戦闘が散発的に発生する。
民族などに関係なく、隣近所で助け合う人々は、少数ながらも居た。
日毎に戦闘の頻度が上がる。
誰が敵で、誰が味方なのか。
身内ですら、魔力の有無、信じる神によって分断された。
誰を信じればいいかわからず、誰もが敵に見える。
そんな中、引越したばかりの店長一家とアミエーラの祖父母一家は、今更ネモラリス島に戻ることもできず、支え合って生きた。
そうして始まった内乱は、半世紀も続き、国が三つに分かたれて終わった。
「また、あんな時代になったのかと思うと、うんざりするわ」
アミエーラは、パンの欠片を口に含んだまま老婆の昔語りに耳を傾ける。
店長の髪は雲のように白く、陸の民なのか、湖の民なのか判然としない。
「でもね、ホントに信じ合える人って言うのは、民族にも魔力にも、信仰にも何にも関係なく、確かに居るものなのよ」
老いた店長の言葉にアミエーラは頷いた。
今のところ、そんな人は居ない。
アミエーラは店長に信頼を寄せるが、同じ力なき陸の民で、信仰を同じくするキルクルス教徒で、リストヴァー自治区に住まう仲間だからだ。
店長にとって、アミエーラは親友の孫だ。
……人を信じる気持を忘れちゃいけないって言いたいのかな?
漠然と考えながら、チーズの欠片を口に入れた。
奥歯で噛み締めたまま、動きが止まる。濃厚な味と香りが、思考を中断させた。
新年のお裾分け以来の味だ。ほんの一カ月前のことなのに、ずっと昔のように感じる。
店長は香草茶を一口啜り、大きく息を吐いて問いを発した。
「アミエーラ、あなたのその名前、本当の名前じゃないのは知ってるかしら?」
「本当の、名前……ですか?」
「アミエーラは、真名ではない名前よ」
「あ、あぁ、そう言うことですか。はい、知ってます」
「じゃあ、真名も知ってるわね?」
店長が身を乗り出し、声を潜める。アミエーラはチーズを飲み込んで頷いた。
「魔法使いに知られちゃいけない、本当の名前。ここでは必要ない筈なのに、どうして名付けられたと思う?」
「万が一ってコトがあるかもしれないから……ですか?」
店長は、静かに首を横に振った。
「いい? 今から言うことは誰にも言っちゃダメよ。あなたのお父さんにもね」
☆内乱は、半世紀も続き、国が三つに分かたれて終わった……「0001.内戦の終わり」参照
☆ネーニア島では湖の民、力ある陸の民、力なき陸の民で泥沼の戦い……戦闘の例:ネーニア島西部のザカート市=外伝「明けの明星」(https://ncode.syosetu.com/n2223fa/)参照




