558.自治区での朝
食事をして少し休んだお陰で【操水】を使える程度には回復した。
呪医セプテントリオーは、服を着たまま浴室に入り、シャワーの湯を術で巡らせて入浴と洗濯を同時に済ます。湯を沸かさなくていい分、楽に終わり、汚れた湯をそのまま排水溝に流す。
水から汚れを分離する気力もないのだと気付き、身も心もすっかり乾いた状態で浴室を出た。
洗面の鏡に映った顔は、目が落ち窪み、顎の無精髭が青黴のようだ。湖の民を初めて見た少女が怖がるのも無理はない。
……魔法の治療を受けたせいで兄が殺されたと言っていたな。
治療に当たった呪医セプテントリオーを恨んでいるだろうか。
中央市民病院に搬送される患者は、大半が一刻を争う重傷だ。
……キルクルス教徒は、そんな患者に何もせず、見殺しにしてくれた方がよかったとでも言うのか? 魂の平安とやらの為に……?
疲れているから、よくない方向へ考えるのだ、と頭を振り、思考を打ち切る。
先程、ソファを運んだ部屋へ行く。一緒にソファを運んだ新聞屋の男性は、何度も「センセイにはご迷惑お掛けしませんから」と言って帰った。
……私が心配なのは、私がここに居ることで、彼らに累が及ばないかと言うことなのだがな。
いざとなれば、セプテントリオーは力ある民だ。どうとでもなる。もっと力なき民の自分たちを大切にして欲しかった。ただでさえ短い常命人種の命を削るような危うい真似は、やめて欲しいとさえ思う。
呪医セプテントリオーは、仕立屋の老婆と新聞屋の我が身を顧みない親切を、有難いと思えない自分にうんざりした。
扉に鍵を掛け、拠点での生活ですっかり習慣化した【鍵】も掛ける。窓の戸締りを確認し、泥棒避けの格子の存在に少し安心した。
カーテンをきっちり閉め、壁のスイッチで電灯を消したところで、はたと気付いた。
……今……【鍵】が掛かったな。あっ……【操水】も……!
リストヴァー自治区を囲む壁の傍では【飛翔】の術が打ち消された。【消魔】の術が施されていたのはあの壁だけで、中に入り込んでしまえば、術が使えるのだろうと推測する。
……ここからなら【跳躍】も可能なのか?
壁の【消魔】がなくとも、噂通り、リストヴァー自治区を守る為に【跳躍】除けの結界が巡らされていれば、跳べない。
明日試すことにして、ソファに横たわった。
ノックの音で目を開く。カーテンの隙間から漏れた光が、木の床をそこだけ白く染めていた。全く知らない場所だ。
ぼんやりした頭にノックの音と少女の声が響く。
「朝ごはん、できました」
その声で昨日の出来事が一気に頭を駆け巡り、呪医セプテントリオーはソファから跳ね起きた。
「わかりました。後で行きます。お先にどうぞ」
足音が充分遠ざかるのを待って扉に近付く。身体のあちこちが軋むのは、慣れない山道を歩いたせいで筋肉痛を起こしたからだろう。
伸びをして大きく息を吐くと、幾分か頭がすっきりした。合言葉を呟いて【鍵】と扉を開けると、美味そうな匂いが流れ込んだ。
昨夜は髭を剃る気力もなく、そのまま寝てしまった。洗面所を借り、身支度を整えて台所に顔を出すと、仕立屋の老婆と少女がホッとした顔で迎える。
夕飯とは違う具のスープと堅パン。質素だが、まだ疲れが抜け切らない身体に滋味が染み通る朝食だ。
誰も喋らなかったが、昨夜よりも和やかな空気の中で食事を終えた。
少女が食器を洗う間、老婆が鎮花茶を淹れる。甘い香りがささくれ立った心をやさしく撫でつけた。
「サロートカ、今日はお店の仕事はお休みして、若いあなたも一緒に話を聞いてちょうだい」
大地の色の髪の少女は、素直に返事をして仕立屋の老婆の隣の席に座った。
「面倒な前置きはよしましょう。呪医にお尋ねしたいことは、ふたつあります。私の弟……ラクエウス議員の消息と、自治区外の様子です」
「ラクエウス議員のお姉さんでしたか」
ここへ呼ばれた理由がわかり、呪医セプテントリオーはほんの僅か、警戒を緩めた。余程の不仲でない限り、戦乱で生き別れになった身内の安否が気に懸るのは当然だ。
藁にも縋る思いなのだろう、と老婆の胸中を察し、呪医セプテントリオーは答えた。
「彼と直接お会いして話したのは、例の会議が最後です。開戦後、新聞などのニュースでは、度々彼の名を目にしました」
「どんな記事ですの?」
「首都クレーヴェルの議員宿舎襲撃事件で、行方不明者の中に彼の名がありました」
「その記事でしたら、私も見ました」
仕立屋の老女の沈んだ顔に、呪医セプテントリオーは弟を案じる姉の心痛とネモラリスの国内報道に思いを致した。国外の安全な場所に居るとの報道がないのだろうと推測し、動画の件を語る。
「ラクエウス議員は現在、武力に依らず終戦を目指す人々と共に行動していますよ」
「どなたとご一緒なんです?」
老女が食卓に身を乗り出し、針子の少女が気遣う目を向ける。
「湖南地方の複数の国の人たちです。ネモラリス人は、両輪の軸党のアサコール党首や戦争難民となって国外へ逃れた人々です。他の議員や外国人については、私もよく知りませんが、ラクリマリス人やアミトスチグマ人の協力者が多いようです」
皺深い手がハンカチを握りしめ、潤んだ瞳が呪医セプテントリオーに向けられる。針子の少女がティーポットの蓋を開け、鎮花茶の香を広げた。
「えぇっと……インターネットと言う物はご存知ですか?」
「はい。少しだけ……噂にきいたことがありますし、先日、新聞にも載っていました」
老いた姉が、弟の名を見つけた記事の概要を語る。
呪医セプテントリオーは老女の記憶力の確かさに目を瞠り、「魔哮砲は魔法生物である」との告発にギョッとしたが、その驚きは鎮花茶の甘い香りですぐに打ち消された。
「そうですか。それなら話が早くて助かります。ラクエウス議員とアサコール党首……お名前まではわからないんですが、ネモラリスの国会議員四、五人と一緒にアミトスチグマの難民キャンプを視察していましたよ」
「まぁ……弟は今、アミトスチグマに居るのですか?」
「少し前のインターネット上にニュースの動画が上がっていたので、現在どこにいらっしゃるか、確かなことは言えませんが、その時点ではアミトスチグマに居たようです」
老女は目にハンカチを押し当て、鎮花茶の効力を上回る喜びの涙を拭った。
「ラクエウス議員は今も、アサコール党首と共に国外の安全な場所に居ると思います。ですが、その記事が本当なら、軍事機密を世界中に向けて発表したのですから、戦争が終わるまで戻れないでしょう」
「その前にお迎えが来そうね。呪医は、告発の動画をご覧になりましたの?」
「いえ……難民キャンプ視察の動画でしたら、このくらいの……小さい機械で見せてもらいました。映画のように鮮明で、お元気そうでしたよ」
食卓に指で手帳より一回り大きい長方形を描いてみせた。仕立屋の二人が、こんなに小さいのに……と声を漏らす。
呪医セプテントリオーは、諜報員ラゾールニクがあちこち跳び回っているのを思い出した。
「私はラクエウス議員の正確な居場所は存知ませんが、連絡できそうな人物になら、会えるかもしれません」
「それは、どなたですの?」
「恐らく、ラクエウス議員と共に活動している方と同じ団体の所属で、動画を見せてくれたのも彼です」
「その方に伝言……いえ、手紙を渡していただけませんか? お礼に自治区の秘密と和平交渉の材料になりそうなこともお話します」
針子の少女が目を見開いて隣席の老女に顔を向ける。
呪医セプテントリオーも驚いたが、了承して老女を促した。
☆弟の名を見つけた記事の概要……「505.三十年の隔絶」参照
☆「魔哮砲は魔法生物である」との告発……「496.動画での告発」「497.協力の呼掛け」参照
☆アミトスチグマの難民キャンプを視察……「415.非公式の視察」参照




