553.旧街道の行列
「店長さん、お帰りなさい」
仕立屋に戻ったクフシーンカを針子見習いが迎える。クフシーンカ店長は、店舗奥にある自宅への扉を開けながら、針子見習いに言った。
「ただいま、サロートカ。今日はちょっと帰りが遅くなりそうだから、先にお夕飯を食べて、今夜はウチに泊まってちょうだい」
「えっ、でも……」
針子見習いサロートカが、大地の色の瞳を不安に曇らせ、声を震わせる。クフシーンカはさっさと奥へ入り、台所から声を掛けた。
「寝る頃までには帰れると思うけど、何時になるかわからないし、夜道は危ないから。私は車だから大丈夫よ」
まず、針子見習いサロートカに堅パンとドライフルーツ、缶入りのスープを渡す。サロートカは保存食を作業台の上に置き、来客を見詰めた。
クフシーンカは針子に構わず、台所に戻って古新聞を月毎に分けて入れた紙袋を見る。
……あんまりたくさんだと、お医者さんも困るわね。
記憶の通り、一番古いのは六月初旬で今は九月だ。約三カ月分の内、月曜の分だけを抜き取る。サロートカが練習で作った布袋に入れると、老婆の腕にはやや重かった。
杖に縋り、店舗へよたよた戻ると、慌ててサロートカと新聞屋が駆け寄って手を貸した。
クフシーンカは自宅の扉に鍵を掛けず、サロートカに留守番を頼み、クフシーンカがあまり遅くなるようなら奥で先に寝るように言って店を出た。
……私が遅くなっても、あの子はきっとアミエーラみたいに遠慮して、奥へは行かないでしょうね。
ここ数カ月でわかったが、サロートカはそう言う娘だ。その誠実さは嬉しかったが、店舗の床で寝るようなことになるのは気の毒だった。
新聞屋のワゴン車が街道の手前の広場に入る。
ほんの少し前に、ここで山から伐り出した雑木や腐葉土、落ち枝や蔓草などを軽トラに積み込んだ。暦通りにひんやりした空気に入れ替わり、あの夏の日が嘘のように今は涼しい。
「この近所の怪我人が居る家、片っ端から声掛けて回ったから、その……」
「人が多いんだな」
クフシーンカを背負った若者がバツの悪そうな声で言って口籠ると、一週間分の古新聞を抱えた新聞屋が、前を見てうんざりした声を上げた。
雑木林に敷かれた山へ向かう石畳の坂を登り、木立を縫う曲がりくねった坂道を進む。
中腹を東西に走るほぼ直線の街道へ出ると、行列の後ろ姿が見えた。
呪医への報酬を持って来た五人が前へ出ようとすると、最後尾付近の数人が一斉に批難の眼を向けた。
「順番だよ」
「センセイに支払う古新聞持って来たんだ」
「それなら、最後にしてくれ。前から順番で、治った奴が山を降りて、その分、センセイが東へ進むんだよと」
「こんな所で日が暮れたら……」
よれよれの包帯に血を滲ませた女性が、薮の暗がりに蠢くモノに怯えた目を向ける。今はまだ日があるから形を成さないが、夜になれば力を得て、もしかするとこの道の守りを越えるかもしれない。
その不安を打ち消す根拠を持たない五人は顔を見合わせ、ここで順番を待つことに決めた。
治療を終えた者たちが次々と、晴れやかな笑顔で戻ってくる。
「弟は一番前だったのに、何で来ねぇんだ? 先に帰ったのか?」
水汲みの者たちが先に戻ったならわかるが、若者の問いに答えられる者は居なかった。
クフシーンカたちはひんやりした石畳に腰を降ろし、順番が回って来るのを辛抱強く待つ。
「あんまりおおっぴらに言うと、星の標の奴らにみつかるかもしんねぇから、口止めできそうなウチだけ声掛けたんだ」
年嵩の男性が小声で言う。
……それでこの人数……? 口止めには失敗したみたいね。
中途半端な人数が癒されれば、治療を受けられなかった者たちが妬んで星の標の構成員に告げ口するのは目に見えている。
仮に口止めが巧く行き、誰も密告しなかったとしても、今朝まで大変な状態だった者がケロッとしていれば、そこから知れようと言うものだ。
秋の日は早く、刻々と木漏れ日の位置が変わる。
傷の癒えた者たちは足早に山中の街道から去ってゆく。日が落ちれば、雑妖や魔物が勢い付く。血の臭いを嗅ぎつけて、いつ、魔獣が現れるとも知れない。
クフシーンカは秋物のコートの肩をさすった。
「ずっと座ってちゃ、冷えて腰が痛くなるんで、ちょっとそっちで身体ほぐしましょうや」
新聞屋がよっこいせと立ち上がり、クフシーンカに手を貸す。
若者が、古新聞の袋を年嵩の男性に渡して前へ走った。
「俺、怪我してないから、様子見るだけだから!」
叫びながら人々の脇を西へ駆けて行く。道幅は大人が両腕を広げた程しかないが、帰る者を通す為、片側を開けてあり、若者の姿はあっという間に見えなくなった。
「まぁ、弟が気になんのはわかるしな」
薪拾いの男性たちは、訳知り顔で頷いて少し東へ戻る。クフシーンカも、新聞屋に支えてもらい、道標の石碑が建つちょっとした広場まで歩いた。
最後尾の女性が、不安そうにこちらを見て、立って空を見上げる。
広場の四人も天を仰いだ。薄い雲の広がる空はまだ明るかったが、夏のような力強さはない。それでも、木々の影から出て日射しに晒されると安心できた。
「あ、あの、みんな、もう少し東へ戻りませんか? 待ってる間に少しでも街へ近い方へ……」
最後尾の女性の声に、人々が一斉に枝の隙間から覗く空を仰ぐ。一呼吸置いて何人かが立ち上がった。女性が何度も振り向きながら、クフシーンカたちの居る広場まで戻ると、他の者たちも次々と腰を上げ、引き返してきた。
区画整理後、道路の新設と並行して街灯が設置され、ごちゃごちゃしたバラック地帯だった東地区の夜は、団地地区と同じくらい明るくなった。
無論、街全体を照らすのは不可能で、暗い場所の方が多いが、少なくとも街灯の届く範囲には、雑妖が嫌がって寄って来ない。
呪医は自治区の状態を知らないだろうが、患者の列を前へ進ませず、自分が街の方へ進むのは、帰路の安全を考えてのことだろう。
日が暮れる前に少しでも街の近くへ――
最後尾の女性が不安がるのも無理はない。血の臭いを嗅ぎつけたのか、汚い霧のように薄い雑妖が石畳の端すれすれまで迫る。街の人々は無言で祈りながら順番を待った。
彼女の傷は見たところ、今すぐ命に関わるものではない。時間切れで治療を受けられなかったとしても、日没前に最低でも街灯のある場所へ戻りたいに違いない。
……私はアミエーラをたった一人でこんな場所へ放り出してしまったのね。
土砂と落ち葉に埋もれ、薮に覆われた状態では、道を見失ってしまったかもしれない。
様々な守りの術が掛かった服、リュックサックに縫いつけた護符、【魔除け】の護符――親友のフリザンテーマから預かった魔法の品を全て持たせたから、きっと大丈夫だとは思うが、針子の心細さを思い、今更ながら後悔が押し寄せた。
数人がまとまって戻って来る。
解いた包帯を持った男性に担架が続く。先程の若者が付き添っていた。
「重傷だった奴は急に動いちゃいけないって言われて、休んでたんです」
若者の目は赤かったが、晴れ晴れとした笑顔で言った。
「二、三日寝とけばいいそうですけど、怪しまれるとアレなんで、当分、家で休ませます」
「そうか。よかったなぁ」
「じゃあ、早いとこ戻ろうや」
一緒に薪拾いした男性たちが若者に笑顔を返す。
若者は、畳んだ段ボール箱とゴミ袋を抱え直して、クフシーンカと新聞屋に礼を言った。
「お陰さまで助かりました。ありがとうございます。それで、あの……」
「いいから先に帰んな。長居は無用だ。恩義に思うなら、また何か別ん時に返してくれりゃいい」
新聞屋が、呪医への報酬として持って来た古新聞のお代をやんわり断って首を振る。担架の上で若者によく似た少年が、何度も礼を言い、運ぶ大人たちが笑顔になった。
「これは俺が渡しといてやるし、帰りに店長さんをおんぶすんのも、俺に任せてくれりゃいい。お前らさっさと帰れよ」
古新聞の袋を預かった年嵩の男性が、若者の肩を叩いて担架を送り出す。三人は、彼らが見えなくなるまで手を振って見送った。




