550.山道の出会い
呪医セプテントリオーは、慣れない山道をひたすら東へ進んだ。
クブルム山脈の中腹から見下ろすピスチャーニク区は空襲で荒廃し、遠目にも人の暮らしが失われたままなのがよくわかった。瓦礫の撤去だけでも、数年は掛かりそうだ。
……半世紀の内乱からは復興できたのだ。今回も、何年掛かろうと、きっと何とかなる。
眼下に広がる黒い焼け跡と灰色の廃墟から道の先へ目を転じ、厚く積もった落葉を踏みしめて東へ向かう。岩場などで時々切れ間が現れる他は、木々が生い茂って北側の視界は利かない。見えたところで焼け跡だ。
前方は落葉に埋もれた旧クブルム街道で、土に還った落葉から若木や灌木が生え、落石や倒木が横たわる。三十年ばかり人の手が入らず放置された道は、すっかり山に同化していた。
薄暗い山中でただひとつ、人の影響が続くのは【魔除け】だ。汚い霧のように昼なお漂う雑妖が避け、薄暗い山道の中、そこだけ一筋明るく見える。
地脈の力を魔力に変換して術を発動する敷石が、クブルム山脈の西端から東端まで続き、道行く者を守る。
薮や岩を避けて道を外れると、稀薄な雑妖が白衣に刺繍された【魔除け】に蹴散らされた。
呪医セプテントリオーは息を切らせ、汗を拭いながら行く。
初めて通る道ではないが、最後にここを通ったのは二百年以上前の旧王国時代だ。その間に伐採と植樹が繰り返され、自然災害などで地形が変わった所もある。
すっかり様子が変わってしまった場所には【跳躍】できない。仮に変化がなかったとしても、半世紀の内乱を経て国が分かたれた時、リストヴァー自治区の辺りには【跳躍】除けの結界が施されたと聞いたことがある。
いずれにせよ、呪医セプテントリオーは、王国軍の軍医だった頃より齢を重ね、中年期に差し掛かった身体に鞭打って自分の足で歩く他なかった。
昼を少し過ぎた頃、薮を避けて顔を上げると、不意に視界が開けた。
この辺りはもう、リストヴァー自治区の南側の筈だが、何故か、街道が掘り起こされ、力ある言葉が刻まれた石畳が見える。
つい最近、作業したばかりなのか、街道脇の木々の枝打ちの切り口が新鮮だ。石畳には箒で掃いた跡がうっすら残り、ゾーラタ区の農夫たちのように【操水】で洗い流したのではないことが窺えた。
……魔法の使えない自治区民がこんな所まで来たと言うのか?
キルクルス教徒の自治区民は、魔法で守られた道を使うことに抵抗がある筈だ。俄かには信じられないが、道の状態を見る限り、そう判断せざるを得ない。
呪医セプテントリオーは、膝の高さの段差を慎重に降りた。
敷石に雨の流れた跡があり、そこに彫られた力ある言葉には黒い土が詰まっているが、歩くのに差し支えはない。街道の両脇も石畳と同じ高さに掘り下げられ、周囲より一段低くなっていた。削られた土から千切れた根が飛び出し、街道を吹き抜ける風に揺れる。
土の匂いが濃く立ちこめる街道を足早に行くと、木立の間に動く人影が見えた。雑妖の塊がたまたま人の形に見えたにしては、存在感がある。
……自治区民……なのか?
どうしたものか、と木立の間に目を凝らす。陸の民が三人。男性ばかりだ。こちらから見えると言うことは、向こうからも見える。しかも、白衣は山の中でよく目立つ。
街道を逸れてやり過ごそうかと思ったが、それでは却って彼らを不安にすると考え直し、そのまま石畳の上を進んだ。
呪医セプテントリオーは、互いの顔がわかる距離まで近付いて歩みを止めた。
先方もとっくに気付いている。困惑した顔を見合わせ、何事か小声で相談する。湖の民へちらちら向ける目は不安そのものだ。
「こんにちはー」
湖の民の呪医セプテントリオーが先に声を掛けると、三人は怯えた目でこちらを見て、薪の束を抱え直した。落ち枝を拾い集めて蔓草で縛る作業中だったらしい。
……薪拾いでここまで来たのか。
粗末な服を着た男たちの目的はわかった。信じてもらえる自信はないが、こちらに害意がないことを伝える。
「私はゼルノー市立中央市民病院の呪医です。今から南のノージ市へ行くところなのですが、道はそちらの方まで発掘してあるのでしょうか?」
三人の男性が小声で相談し、一人が薪の束を抱えてこの場を離れる。後の二人は太い枝を拾って湖の民の呪医に向き直り、声を張り上げた。
「この北側は、リストヴァー自治区だ」
「あんた、こっちに降りてくる気じゃないだろうな?」
精一杯虚勢を張るが、二人の声は震えていた。
……【不可視の盾】くらいは掛けておいた方がよかったか?
だが、今、呪文を唱えれば、彼らを更に警戒させてしまう。呪医セプテントリオーは穏やかな声で言った。
「自治区へは行きません。南のノージ市へ行きたいんです」
「そんなとこへ行ってどうするんだ?」
「ノージ市は目的地ではなく、経由地なんです。王都で避難民の支援を手伝って欲しいと頼まれて、行くところなんです」
「こんなとこ通んねぇで、魔法でどこでも行きゃいいじゃねぇか」
二十歳前後の若者が言うと、三十代半ばくらいの年嵩の男性が、若い連れを苦い顔で見た。
彼らがどこまで知っているのかわからず、呪医セプテントリオーは静かな声で丁寧に説明する。
「知らない場所へは【跳躍】……魔法で行けないんです。今、ラクリマリスの湖上封鎖で、ネーニア島のネモラリス領側からは船を出せないんですよ」
「それで、そんなカッコ……しかも、手ぶらで山を越えようってのか?」
「そうです」
二人は小声で相談し、無言で湖の民の呪医を見た。彼らにとっては、緑色の髪の魔法使いは、恐怖の対象なのだろう。
……何もしないから、通して欲しいのだがな。
可能なら、自治区が今どうなっているか知りたかったが、この様子では無理だろう。
押し通るのは容易いが、呪医セプテントリオーは相手の反応を待った。この場を離れた一人は自治区へ降りて、仲間か警察……もしかすると自警団を呼んで来るだろう。
……話の通じる人たちならいいが、武器を持ち出されると厄介だな。
呪医セプテントリオーは、傷を癒す術なら修得したが、戦う術は知らなかった。
「この道は、あなた方が清掃して下さったんですか?」
「そうだ」
年嵩の方が頷く。呪医セプテントリオーは微笑んだ。
「ありがとうございます。歩きやすくて助かりました」
「あんた、ずっと山ん中通って来たのか?」
「いえ、ゾーラタ区に近い所は、麓の農家のみなさんが同じように片付けて下さっているので、それ以外の場所だけですが……」
二人はひそひそ言葉を交わし、何も言わずに呪医とその向こうの道を見る。
……人が増える前に通った方がいいのか?
不穏な気配を感じ、湖の民の呪医は一歩足を踏み出した。
男性たちはびくりと身を竦ませたが、その場を動かない。
数呼吸分、無言で見詰め合い、呪医セプテントリオーは彼らに近付いた。
太い枝を持つ手に力が籠もるのが見て取れたが、気付かぬフリで進む。棒で殴られる程度なら、白衣の【耐衝撃】でも充分、防げるだろう。
流石に銃や刃物を持ち出されてはどうにもならないが、今なら多少、手荒な扱いを受けても構わないと腹を括り、どんどん近付く。
「ラクリマリス領へ行きたいだけなんです。ちょっと通らせてもらいますよ」
彼らは怯んだが、足に根が生えたようにその場を動かなかった。枝を握る手にますます力が籠もり、指が白くなる。
呪医セプテントリオーは歩みを止めることなく、二人の前で会釈した。
「ちょっと通りますよ」
「ま……待ってくれ!」
若者が両手を広げて通せんぼした。その目に満ちる迷いと恐れ、それ以上の懇願に、呪医の歩みが止まる。年嵩の男性が、横を向いて目を伏せた。




