0056.最終バスの客
昼食も、湖の民の薬師が獲ってくれた魚を焼いて、ゆっくり食べた。
食事が終わるまで待ったが、レノたちの母は終に現れなかった。
父と妹たちは何も言わない。レノも何も言わず、ただ時折、家の方角へ目をやりながら、時間を掛けて野営地の後片付けをした。
今朝、突然倒れた陸の民の少年は、昼食時になっても目を覚まさなかった。
薬師の見立てでは、精神的な疲労と睡眠不足が原因とのことだ。今も、グラウンドの隅で毛布を掛けられて昏々と眠る。
朝のバスで、半分くらいの人が鉄鋼公園を去った。
車内には、既に他の一時避難所から乗った人々が居り、全員は乗れなかった。
数人の大人と、レノたち椿屋の一家とクルィーロ兄妹、中学生たちと湖の民の薬師、昨日加わった陸の民の少年が残った。
早く避難したいと思う一方で、他所へ行った後で母がここに来たら、との不安もある。
次のバスが、ここでの最終便になると聞いた。
今すぐ店に戻って母を探したいような、ここで待ちたいような、身の置き場のない落ち着かなさの中で黙々と作業を続ける。
「お巡りさんに聞いたんだけど、漁港の船は、隣のマスリーナ市の港へ避難してるんですって。だから、もし、お母さんが船で避難してたら……」
「そうですね……」
湖の民の薬師が、望みを繋ぎ得る情報をくれたが、レノは弱々しく微笑みを返すだけで精一杯だった。
中学生たちは、家族や友達を諦めたのか、もう東の方を見なくなった。或いは、東を見ることさえ辛いのかもしれない。
ピナが、そんな級友たちを申し訳なさそうに見る。
レノは、そんな妹の姿を居たたまれない思いで見守る。
この場の中学生で唯一人、家族が生きて目の前に居る。そのことに罪悪感を抱え、本来なら、必要ない思いに縛られる。
レノは、罪悪感の源である「兄」の自分が、何をどう言えばいいかわからず、無言で見守るしかなかった。
ティスは、父の前掛けの端をぎゅっと握りしめ、今朝から一言も喋らない。
午後二時過ぎ、とうとう避難所への最終バスがきた。
陸の民の少年は気を失ったままだ。
警官が毛布に包んで、座席に座らせる。彼の荷物は、薬師が代わりに持ち込み、隣に座った。
椿屋一家は、後ろ髪引かれる思いで最後に乗った。
エンジンが掛かり、バスが鉄鋼公園を離れる。
「今からマスリーナ市の北公民館へ向かいます」
運転手が一言告げ、パトカーの先導で走りだした。警察署から、もう一台のパトカーと護送車も出発する。
避難者とテロリストを運ぶ車が、一列になってジェリェーゾ区を去る。
間もなく、湖岸三区のグリャージ、スカラー、ジェリェーゾ区と、テロリストが潜伏するミエーチ区が封鎖される。
リストヴァー自治区と南東部で隣接するピスチャーニク区は、今のところ封鎖の予定はないようだが、誰もが時間の問題だと思った。
バスに重苦しい沈黙が満ちる。
息の音さえ憚られる空気の中、車窓へ目を向ける者、頭から毛布を被る者、全財産となった自分の荷物を確認する者……バスの乗客は一様に、不安と疲労、悲しみで表情を曇らせる。
湖の民の薬師アウェッラーナは、気を失った陸の民の少年に付き添った。
少年はまだ目を覚まさない。
アウェッラーナは車窓に目を向けた。
車線の東側の街区は家々が破壊され、骸のような瓦礫が連なる。西側の建物は無事だが、人の気配はない。
どこにテロリストが潜んでいるかわからず、瓦礫の撤去は手付かずだ。
小さな溜め息が漏れる。
微かに、音が聞こえた。
大気を震わす不吉な響きに心が凍る。音の接近に伴い、身体が震えた。
アウェッラーナは毛布を被り、緑の頭を抱え込んで耳を塞いだ。
座席で前屈みになった瞬間、激しい衝撃に襲われた。
天地がひっくり返り、悲鳴が上がる。
何がどうなったかわからない。
車内は下手なシェイカーのように揺さぶられ、身体があちこちに叩きつけられた。
どのくらい経ったのか、気が付くと、運転席の外に炎が見えた。
バスは横転し、左側の窓が道路に接する。後部座席の窓からも炎が見えた。
アウェッラーナは、折り重なった人の間から、自身を引きずり出した。
意識を失った者、骨折し、手足があらぬ方へ曲がる者、ガラスが刺さり呻く者、明らかに首が折れた者……重傷者が多く、途方に暮れかけたが、どうにか自分を奮い立たせて状況を確認する。
アウェッラーナは、ガラスが砕けた窓枠に立ち、まず、自分の身体を確めた。
興奮や驚愕で痛みを自覚しないことがあるので、両手で撫でさすり、痛む所はないか、何か刺さった所がないか調べる。
コートのちょっとした防護の術と、毛布に包まっていたお蔭で、アウェッラーナは、殆ど無傷だった。
軽い打撲があり、後で痛むかもしれないが、大したことはないだろう。
シートベルトで席に固定された運転手は、力を失った手と首がぐったり垂れ下がって動かなかった。割れた窓から黒煙が流入し、生存者が激しく咳込む。
アウェッラーナは、自分の鞄と手近のリュックサックを肩に掛けて声を掛けた。
「動ける人は、バスの前と後ろから、外へ出て下さい」
バスの燃料に引火すれば、誰も助からない。
中学生が助け合って、座席の背もたれに這い上がる。
……外に出て、火を消して、避難して、それから、怪我を治して……
アウェッラーナは、為すべきことを頭の中で組み立てながら運転席に近付く。フロントガラスは砕けて粉々だ。料金箱の上に立って運転手に呼び掛けた。
「運転手さん、運転手さん!」
何度も呼び掛けると、うっすら目を開けた。
意識が朦朧とするのか、焦点の合わない目が宙を見る。アウェッラーナの腕力では降ろせない。
諦めて、一人で車外へ出た。
避難者の誘導の為、一番前の座席に居た市職員は、車外に放り出されていた。一目で生きていないとわかり、思わず目を背けた。
毛布に包まっていた者は比較的、怪我が軽い。二、三人で声を掛け合って、動けない負傷者を車外へ出す。
パトカー一台と護送車も横転していた。
無事なパトカーから、警察官がバスに駆け寄る。警官の助けで、負傷者を次々と車外へ運び出す。
なんとか脱出できたが、炎と黒煙に囲まれ、それ以上の逃げ場はなかった。
……水……、水はどこにあるの? 火を消さなくちゃいけないのに。
「薬師さん、すぐそこに運河があります」
警官の一人が、呆然とするアウェッラーナの肩を掴み、北を指差した。
言われてやっと、市民病院周辺の地理を思い出し、アウェッラーナは【跳躍】した。橋の袂へ跳ぶ。
セリェブロー区への橋は崩落していた。
運河には橋の残骸と車両が何台も沈む。
対岸では、ずぶ濡れの人々が力なくへたり込む。その周囲の家々も炎上、或いは倒壊し、無事な建物は一棟もなかった。
大気を震わす轟音で、アウェッラーナは空を仰いだ。
戦闘機の編隊が頭上を過る。
飛び去った彼方の空に輝く何かが降り注ぐ。
閃光。
一呼吸置いて地響きが轟く。
光った辺りから黒煙が立ち昇る。
「……空襲?」
どこと戦争になったのか。今は考えている場合ではない。慣れ親しんだ【操水】の呪文を唱え、運河から魔力の及ぶ限りの水塊を起ち上げた。
運河と横転地点の間には、炎が壁となって立ち塞がる。
水塊を地に這わせ、そのまま炎の壁に突入させた。水流と火焔がぶつかり、激しい音と共に白煙が上がる。
車一台分の幅に炎が消え、道が通った。
先導のパトカー、その向こうに横転した護送車が見える。
アウェッラーナは、半分程に減った水塊を宙に漂わせ、バスに近付いた。まだ負傷者の救出作業が続く。
「動ける子は、運河の方へ逃げて」
突破口に気付いた警官が指示する。
子供らが、足を引きずりながらバスを離れる。
アウェッラーナは、残りのフロントガラスと地面に散乱する破片を水で洗い流した。水に含ませた破片は、炎の傍へ排出させる。
警官の一人が、護送車の扉を開放した。
「動ける者は出ろ!」
動けない者は諦めるしかない。
アウェッラーナは残った水を炎にぶつけ、通路を広げた。
四車線道路の両脇の街区が激しく燃える。最初の襲撃後、住民は避難して無人だ。そうでなければ、何人が焼かれただろう。
火を消し止める住人も居ない。炎は思う様、家々を呑み、燃えるに任される。
運河の向こうも同様に燃えていた。
アウェッラーナは再度、運河の水を起ち上げた。身を寄せ合う避難者とテロリストの周囲に水の壁を巡らせる。
金髪の工員がそれに倣い、力ある言葉をたどたどしく唱えて水を起ち上げた。
「そうだ……ガラス……あの、どなたか、他に魔法、使える方……」
警官の一人に水壁の維持を代わってもらい、アウェッラーナは改めて、運河の水をバケツ一杯分、起ち上げた。
血塗れの者を一人ずつ診ながら、傷に刺さったガラス片を水で包んで抜き取る。
一人処置を終える度に、水から不純物を排出し、またすぐに別の怪我人を洗う。
とにかく今は、目の前の怪我人に集中する。早く傷を塞ぎたいが、先にガラス片を除かなければ、体内に異物を取り込んだままになってしまう。
目の前の一人、目の前の傷にのみ意識を傾け、焦りを抑えた。
破片の除去に失敗すれば、血管を更に傷付け、大出血を起こしてしまう。
☆他所へ行った後で母がここに来たら……「0021.パン屋の息子」参照
☆次のバスが、ここでの最終便……「0049.今後と今夜は」参照
☆お巡りさんに聞いたんだけど、漁港の船は、隣のマスリーナ市の港へ避難……「0043.ただ夢もなく」参照
☆中学生たちは、家族や友達を諦めた……「0030.状況を読む力」「0039.子供らの一夜」「0040.飯と危険情報」参照
☆陸の民の少年は気を失ったまま……「0055.山積みの号外」参照
☆テロリストを運ぶ車……「0037.母の心配の種」「0038.ついでに治療」、「0043.ただ夢もなく」~「0046.人心が荒れる」参照
☆コートのちょっとした防護の術……「0005.通勤の上り坂」参照




