539.王都の暮らし
朝食後、レノ店長が自治区民の四人に言う。
「俺たち、そこの神殿へお参りに行って来ます。すみませんけど、留守番お願いします」
針子のアミエーラは紅茶のカップから唇を離し、昨夜考えた口実を精一杯冷静に口に出した。
「私もいいですか? 王都の人たちがどんな服着てるか見ておきたいんですけど……」
「姐ちゃん、仕事熱心だなぁ」
メドヴェージが苦笑した。モーフが、つまんねぇコト言うなよ、とメドヴェージを窘める。ソルニャーク隊長は、アミエーラに何か言いたそうな目を向けたが、宿の従業員の手前、反対しなかった。
薬師アウェッラーナが何か察した風な目を向ける。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
神殿の外観や詣でる人々の姿を見て、少しでもフラクシヌス教について知りたい。針子のアミエーラは、助け船を出してくれたアウェッラーナに心から感謝した。
星の道義勇軍の三人は何も言わず部屋に引き揚げ、他のみんなは外出用に衣服を整えて宿の玄関に集まった。
「ここから見える白い建物が、女神様の西の神殿ですよ」
門番が掌で示す方に大きな白亜の建物が見えた。キルクルス教の教会のような星見の尖塔はなく、ゆるやかな丸屋根が家々の屋根の向こうで朝の光を受けて輝く。
歩道を行く人は少ないが、人や荷物を満載した細長い船が水路を行き交い、水の上は賑っていた。
……ここは水路が中心の街なのね。
貴族の館を改装したと言う宿から、湖の女神パニセア・ユニ・フローラの西の神殿まで、車道は一筋もなかった。トラックを【無尽袋】から出せる場所などどこにもない。
ランテルナ島で見たカルダフストヴォー市よりもずっと古く、歴史を感じる街並には電柱やバイクどころか、自転車すら見当たらなかった。
大きくどっしりした構えの家々は白っぽい石造りで、目を凝らすと、壁や塀にはこれまであちこちで目にした力ある言葉がびっしり刻まれている。
足下に視線を落とせば、歩道の石畳も同様で、建物の影には一匹の雑妖も視えなかった。
カルダフストヴォー市の建物は、色とりどりのタイルで飾られていたが、王都ラクリマリスはフラクシヌス教の聖地だからか、街並全体が白っぽく清廉な印象を受けた。
屋根は大地の色や緑など、色つきの陶製の板で葺いてある。何枚も規則正しく重ねられた板は、遠目に魚の鱗を貼り付けたように見えた。
リストヴァー自治区とは比べようとさえ思えない。
……魔法の国で、工場なんてないから、建物が煤けたりしないんでしょうね。
工場の騒音と煤煙、トラックのクラクションと排気ガス、雨が降れば生活排水や排泄物でぬかるんでドブ同然になるバラック街の通路……そんな諸々の汚れと穢れに塗れ、雑妖と共に暮らした日々が、ふとした弾みでまざまざと甦り、これまでの人生がどんなに酷いものだったか、違いを突きつけられる。
リストヴァー自治区を出るまで、アミエーラは自分を運のいい幸せ者だと思っていた。
後ろ暗い商売に手を出さなくても、毎日何か食べられて、母と弟妹は病気で残念なことになったが、父は元気で働き続け、アミエーラを高校に行かせてくれた。
先生や大人たちは事あるごとに、「自治区では、聖者キルクルス様の教えに従って学問が重視され、自治区外と違って学費は掛からない」と聖者に感謝の祈りを捧げるように言っていた。
学費は無料でも、生活費を稼ぐ為に子供でも働かねばならず、バラック街では、モーフのように小学校にもロクに通えない子が多かった。
卒業後は祖母の親友の仕立屋で雇われ、毎日キレイな服を着せてもらい、お昼はきちんとしたご飯を食べさせてもらっていた。
自治区の外……ゼルノー市の農村も、ラクリマリス西部の諸都市も、アーテル領ランテルナ島の街も全部……いや、空襲で壊滅した北ザカート市や、村レベルにまで規模が縮小したと言うモースト市でさえ、アミエーラが生まれ育ったリストヴァー自治区のバラック街とは比較にもならないくらい立派だ。
……何が……こんなに違うのかな?
ファーキルが、インターネットで見せてくれたアーテル本土の街も、整然としてキレイだった。高い建物が何棟も並んでいたが、窓ガラスは一枚も割れていない。道はアスファルトや石畳で舗装され、ドブ川同然などと言うことはなく、人々の身なりもよかった。
……アーテルの街がキレイだってコトは、力なき民だからダメってワケじゃないのよね。
ついでに言うと、信仰の違いも原因ではないのだろう。
アミエーラたちの横を通る細長い船では、後ろの端に人が立って何かの呪文を唱えては、前を指差している。きっと、船を操る魔法なのだろう。
彼らの服は、全体がゆったりした造りで、膝丈の上着を色とりどりの刺繍が施された帯で留めている。
袖は肩から肘まではたっぷり余裕があるが、肘から手首までは細く、腕にぴったり貼りつくデザインだ。細い部分は緻密な刺繍、身頃の部分は染めで、多分、何かの呪文を模様のように配置しているのだろう。
男女共に下はズボンで、刺繍や染めで施された色柄の違いは、呪文の種類によるものなのか、個人の好みや性別によるものなのか、魔術の知識がないアミエーラにはわからない。
クロエーニィエのように【編む葦切】学派の術を学べば、魔法使いの中でも、以前と同じ「仕立屋の針子」として働けるのだろうが、まだそこまでの決心が付けられないでいた。
街路樹はどれも、クブルム山脈のどの木よりも立派な大木だ。アミエーラには樹種も樹齢もわからないが、フラクシヌス教の神と関係が深いと聞いた秦皮や樫なのだろう。
濃い緑は白い街並と調和して、初めて訪れたキルクルス教徒のアミエーラの気持ちも和ませた。
小学生のアマナとエランティスが物珍しげにキョロキョロしては、何か言ってはしゃぎ、兄姉たちが一言二言交わして微笑む。
少し遅れて歩くアミエーラと、湖の民の薬師アウェッラーナは、それぞれ考えごとをして黙っているが、ロークとファーキルはお喋りしながらついて来る。
……私ってホントに何も知らないのね。
リストヴァー自治区で暮らしていた頃、近所の人たちは毎日、食べて行くのがやっとで、聖者キルクルスの教えを守って勉強する余裕がなかった。
バラック地帯では、高校を卒業できる子はほんの一握りだ。
その幸運に恵まれたアミエーラは、近所のおばさんたちからしょっちゅう、役所の貼り紙や子供が学校から持って帰った保護者向けのプリントを読み上げて欲しいと頼まれていた。半世紀の内乱中に生まれた親世代は、戦乱で学校に行けなかった人が多い。そこに書かれた難しい言い回しを少し説明しただけで、知識人扱いされた。
……でも、私は木の種類も、フラクシヌス教のことも、魔法のことも、自治区の外のことは何も知らない。
ファーキルが今朝、インターネットで調べてくれた天気予報では、明日も晴れらしい。
明日の朝、船で無事にネモラリス島へ渡っても、そこから先、どうすればいいのか。何者として生きてゆけばいいのか、肝心なことは何ひとつ決まっていなかった。
☆薬師アウェッラーナが何か察した……「252.うっかり告白」参照




