538.クブルム街道
呪医セプテントリオーは農夫の一家に見送られ、手入れの行き届いた農道を通ってクブルム山脈の登山口へ向かった。
夏は終わったが、紅葉の時期には遠く、青々と繁る枝葉の中で小鳥が高らかに囀る。
ゼルノー市ゾーラタ区の農村と山道を隔てる柵は木製で、いかにも頼りなく見えるが、そこに彫られた力ある言葉は、術の効力をしっかり維持していた。
空襲後に戻った村人たちが定期的に魔力を補充しているのか、クブルム街道同様、地脈の力を魔力に変換しているからなのか。【巣懸ける懸巣】学派の術をよく知らない呪医にはわからなかった。
……まぁ、山の魔物や魔獣が人里に降りて来ないなら、何でもいい。
ネーニア島のネモラリス領は、島を南北に分かつクブルム山脈の北に位置する。
山は日中でもあまり日当たりが良くないが、農夫の言葉通り、街道の石畳は最近敷かれたばかりのようにキレイだ。敷石に刻まれた力ある言葉には、苔が生えるどころか、土埃ひとつ詰まっていなかった。
閂を外して山道に入り、柵の間に手を入れて閂をしっかり閉め直す。登山道の両側は、よじ登れそうにない急斜面で、苔むした大きな岩が壁のように聳えていた。
呪医セプテントリオーは、村人たちに感謝して坂道を登る。
旧ラキュス・ラクリマリス王国時代、軍医として魔獣の討伐隊に同行した際と同じ、蛙に似た岩をみつけた。
二百年数十年前にここを通った時、坂を意識した憶えはなかったが、今、南へ向かう九十九折りを半分も登らない内に息が切れ、額に汗が滲む。白衣に刺繍された【耐暑】などの術は、外気温などからは守ってくれるが、運動や病気などで内から体温が上がるのはどうにもできない。
呪医セプテントリオーは、肉体の衰えを痛感させられながらも、歩みは止めず、石畳の敷かれた街道を登り続けた。
前夜に「徒歩で登る」と告げていれば、農夫の一家はなけなしの食糧から日持ちしそうな食べ物を分けてくれただろうが、呪医セプテントリオーは敢えて言わなかった。
分かれ道に出たのは、日が高く昇ってからだった。街道の上に伸びた枝が伐り払われ、日の光が燦々と注ぐ。
クブルム山脈の中腹を東西方向に走る街道の分岐で、道標の石碑も村人たちの手で清掃され、行き先の案内が読みやすい。
北は、先程の村への登山口。
西は、クルブニーカ市への降り口、その向こうは、遙か彼方のザカート市まで降り口はない。
東は、ピスチャーニク区とグリャージ区への降り口に加え、南のノージ市へ降りる道もあった。
案内の地図は、ザカート市が南北に分かれておらず、リストヴァー自治区ではなく、ゼルノー市の区名で書かれている。ラキュス・ラクリマリス共和国時代に建てられ、半世紀の内乱前の情報のまま更新されていなかった。
呼吸が落ち付いたところで、白衣のポケットから緑青飴を出して一粒口に含んだ。しばらく舐めていると元気が戻り、東へ歩みを進める。
上り坂でなくなった分、足は軽かったが、五分ばかり行くと石畳が土砂と落ち葉に埋もれてしまった。
……いや、寧ろこんな遠くまで、よくぞ掘り進めたものだ。
村人たちは春から始めたと言っていたが、何日掛かりで作業したのか、見当もつかない。ただ、それだけ食糧が乏しく、山菜などを求めて道を開かなければならなかった彼らの苦労は、容易に想像がついた。改めてここまでの道を掘り起こしてくれた彼らを心の裡に労う。
街道の続きは木々の枝に覆われ、濃い影が差しているが、数十年分降り積もって下層が土に還った落ち葉の上には、雑妖が視えない。鬱蒼と生い茂った薮の陰には、この時間でも雑妖が視える。
埋もれていても、地脈の力で稼働する術の効果は切れていないらしい。
呪医セプテントリオーは安心して、一段高くなった道によじ登った。倒木を乗り越え、雑妖が視えない部分を選んで東へ歩く。
先程よりも歩みは鈍くなったが、日没前に少し拓けた場所に出た。
ちょっとした広場になっており、奥に朽ちた小屋がある。切り株から伸びる孫生は、セプテントリオーよりも高く育っていた。
白衣の【魔除け】で雑妖を蹴散らして小屋に近付くと、看板の色褪せたペンキから辛うじて「林業組合」とだけ読み取れた。
開け放たれた戸口から覗くと、屋根は半分落ちて土に還っていたが、雑妖が居ない。この小屋も街道と同じ術で守られているのだろう。
今夜はここに泊まることに決め、小屋の周囲を見て回る。
岩の窪みに溜まった水を術で浄化して飲み、人心地つく。
西側に生えた香草茶になる草を摘み、裏手に生った木の実をもいでポケットに詰めた。まだ少し青いが、食べられない程ではない。
窪地に溜まった水を【操水】で汲み出し、小屋の床を洗い流した。隅に【魔除け】の敷石があるが、用心して【簡易結界】を掛けて床に腰を降ろす。
部屋の中央に炉が切ってあり、いつのものかわからない焚火の跡があった。
戸口の横には鎌や鋸、鉈などの山仕事の道具が掛かっているが、どれもボロボロに錆び朽ちている。力なき民の作業員が安全に休憩できるように用意された小屋だったらしい。
呪医セプテントリオーは、香草を指で揉んで香を立て、気持ちを落ちつけた。
夕日の色をした木の実を皮ごと齧った。思った通り、まだ青臭く甘みは薄かったが、空腹を紛らす為に未熟でやわらかい種子まで残さず食べる。
……明日は自治区の様子を少し見て、ノージ市に降りて……王都行きの船は今もあるのか?
ラクリマリス王国の湖上封鎖は、自国の船の一部を対象から外しているようで、ネモラリスの首都クレーヴェルと王都ラクリマリスを結ぶ便は、戦争難民を聖地や、遠くアミトスチグマの難民キャンプへと届けてくれた。
呪医セプテントリオーは、ランテルナ島の拠点で触れた報道と、ラゾールニクの話でしか、現在のラクリマリス王国の様子を知らない。
半世紀の内乱前のノージ市は、ゼルノー市ピスチャーニク区の反対側の鉱床から銅を採掘し、鉱業で非常に栄えていた。
内乱後、都市は再建されたが、鉱物は【無尽袋】に容れて運べる物だ。旅客を運ぶ魔道機船と港が再建されたかどうか。
ランテルナ島に居る間に、ラゾールニクかファーキルに調べてもらえばよかったのだろうが、あの頃はまさか、徒歩でクブルム山脈を越えるなどとは夢にも思っていなかった。
……ファーキル君は確か、グロム港からは聖地への直行便が出ていると言っていたな。
最悪、そこまで行けばなんとかなるだろう。
平野へ出れば、着地点がはっきり視認できる場所までなら【跳躍】できる。呪医セプテントリオーの魔力なら、十数回【跳躍】を繰り返して、一日でグロム市に着くだろう。
床に横たわり、腕枕をして目を閉じると、疲れと香草の力が合わさってすぐに眠りが訪れた。
☆農村と山道を隔てる柵……「149.坂を駆け下る」参照
☆朽ちた小屋……「134.山道に降る雨」参照




