535.元神官の事情
王都ラクリマリスの門をくぐったのは、日没の少し前で、通りには人影が少なかった。二車線分くらいの水路に沿って石畳の歩道が続き、岸辺には等間隔で樫や秦皮が植わる。
よく見ると、水路の縁石や石畳には力ある言葉で呪文が刻まれていた。澄んだ水に魚が群れ泳ぐ。緑の水草が流れに従って揺れ、深さはよくわからなかった。
「あ、そうそう。この水路、漁業権があるから、勝手に魚獲っちゃダメよ」
「あっ……はい」
薬師アウェッラーナが神妙に頷き、物欲しそうに水路を覗いていた少年兵モーフは小さく舌打ちした。運び屋フィアールカがくすりと笑う。
「心配しなくても、王都は魚中心の食事よ」
言われてみれば確かに、灯が点り始めた街角には魚を焼く香ばしい匂いが漂っている。
レノたちは夕日に背中を押され、長く伸びた自分の影に案内されるように水路沿いの細い道を歩いた。
王都の水路は、ゼルノー市のニェフリート運河のように魔物が夕闇に顔を出すことなく、北の湾に向かって静かに流れる。
この時間でも安全なのだろう。細長い船が、荷を満載してレノたちの傍を通り過ぎる。積荷は新鮮な生野菜だ。湖の民の船頭たちは櫂を使わず、魔法だけで船を巧みに操っていた。
「ここは湖の女神様の神殿だけでも十二カ所あるから、旅の無事をお祈りするのに便利よ。どうせ出航まで暇だし、明日行ってみれば?」
道々観光案内をされながら連れて来られたのは、ドーシチ市の商業組合長の屋敷に負けず劣らず立派な宿だった。
……なんか、こんなボロいカッコで入んの気が引けるなぁ。
レノは何となく、妹たちと顔を見合わす。ピナとティスも、大荷物を抱えた自分の服装を気にしてもじもじしていた。
「宿代は明後日の分まで先払いしておいたから、心配しないで」
「あれっ? 俺の分もですか?」
ファーキルが聞くと、フィアールカは立ち止まってラクリマリス人の少年をじっと見て言った。
「グロム行きの船は毎日出てるし、別に急がなくてもいいんじゃない?」
「えぇと、まぁ、そうですけど……」
ファーキルは口籠ってフィアールカの緑の瞳から視線を逸らした。
……そっか。ファーキル君、家はグロム市にあっても、家族はもう居ないもんな。
レノは、ラクリマリス人の少年の複雑な胸中を察して同情した。同時に、フィアールカの物言いが随分、残酷なように思え、湖の民の運び屋に不快感を滲ませた目を向ける。
フィアールカはレノの視線に気付かないのか、軽やかな足取りで屋敷の門を通り、門番の小屋に声を掛けた。中の係と二言、三言交わし、屋敷の玄関へ向かう。
「ここ、失脚した貴族の館を業者が買取って宿に改装したのよ」
フィアールカは勝手知ったる様子で薄暗い庭を歩き、レノたちは荷物を抱え直して足下を見ながらついて行く。
窓から漏れる灯を頼りに庭を通って玄関に着くと、係の若者が立派な木彫の施された扉を恭しく開いた。
正面に立つ年配の男性が、両腕を広げて歓迎する。
「ようこそお越し下さいました。フィアールカ神官」
「今は運び屋だから、それはもうよしてってば」
運び屋フィアールカが苦笑する。その横顔は、目が笑っていなかった。
……神官?
少年兵モーフがポロリと質問をこぼす。
「神官って何だよ? 運び屋じゃねぇのかよ?」
「それは昔の話で、今は運び屋よ。【跳躍】できない人や、初めての人を聖地に届けるのが私のお仕事なの。お祈りしたけりゃ、女神様はどこからでも受け容れて下さるから、好きなようにすればいいわ」
投げやりな声が返って来て、キルクルス教徒の少年兵モーフは、バツの悪そうな目で宿の玄関ホールを見回した。レノたちもつられてキョロキョロする。
タキシードに身を包んだ年配の湖の民が、眉を下げてフィアールカを見詰め、彼の両側に並ぶ十人のメイドはどうしたものかと顔を見合わせた。
「予約の時に言ったけど、この人たち、明後日の朝の便でネモラリス島に行くから、それまでよろしく。じゃ、何かあったら呼んでちょうだい」
フィアールカは一方的に言って出て行った。
扉の閉まる音で年配の男性が我に返り、メイドたちにテキパキ指示を出してレノたちの大荷物を運ばせる。移動販売店プラエテルミッサの一行は、恐縮しながら部屋に案内された。
部屋割は、何も言わないのにドーシチ市の屋敷の時と同じだった。
……家族と信仰、仲良さそう……で決めてくれたのかな?
レノはフィアールカの手配に感謝して、割り当てられた部屋に入る。荷物を運んでくれた男性に礼を言うついでに質問した。
「ありがとうございます。荷物、重くて済みません。俺たち移動販売店で、一応、俺が店長です。短い間ですが、よろしくお願いします。あの……フィアールカさんって、神官……だったんですか? 湖の女神様の?」
「あ、これは恐れ入ります。申し遅れましたが、わたくし、教団よりこのホテルの支配人を仰せつかっております。こちらこそ、よろしくお願い致します」
互いに呼称までは名乗らない。
支配人が荷物運びまでするのは人手が足りないのか、それとも、フィアールカが連れてきた客だから特別扱いされているのか。
メイドたちがピナとティスの荷物を置いて退がると、湖の民の支配人は質問の答えを口にした。
「左様でございます。このすぐ近くにございます西の神殿でお勤めでした」
「じゃあ、運び屋始めたのって、割と最近なんですね?」
「はい。かれこれ、二十年少々になりますか……」
レノは玄関での遣り取りから最近だと思っていたが、自分が生まれる前のことをつい最近のように言われて面食らった。ピナとティスが、緑の髪に白いものが混じる支配人の顔を見上げる。
支配人は、分厚いカーテンで閉ざされた窓に視線を向けて、溜め息混じりに続けた。
「元々は、今はなき南ザカート神殿でお勤めでした。半世紀の内乱中、キルクルス教徒の爆撃を受け、街も神殿も一日で焼き尽くされてしまいました……」
フィアールカたち湖の女神の神官たちは、魔力の続く限り信者を連れて、ザカートトンネルまで【跳躍】した。
当時、南ザカート市民で、まだ幼かった支配人も、フィアールカの【跳躍】で炎から救われた。自力で逃れた者も含め、南ザカート市民は元の三分の一も残らなかった。
トンネルの内部は術で守られて安全だが、近隣の漁村や農村からの避難民も居て、入りきれなかった人々は助け合って【魔除け】や【簡易結界】を掛けて夜を明かした。
翌朝、燃え尽きた街では相争う各陣営が、空襲犠牲者の【魔道士の涙】を巡って戦闘を繰り広げ、様子を見に行った市民が何人も巻き添えになった。
元々交通の要衝だったこともあり、焼け跡を通るキルクルス教徒の戦車とフラクシヌス教徒の魔法使いたちが度々戦い、住人は復興どころか、帰還もできなかった。当時はフラクシヌス教徒同士でさえ、主神派と湖の女神派に分かれて争っていた。
支配人ら、身寄りをなくした子供や行く宛のない市民は、神官たちが【跳躍】で聖地に連れて行ってくれた。
王都は流石に護りが固く、キルクルス教徒の攻撃を寄せ付けなかった。
湖の民と陸の民……いや、信じる神の違いによって、聖地で暮らす人々はよそよそしかったが、他の場所のように生命を奪いあうことまではせず、表面上は協力してキルクルス教徒の攻撃からこの地を守り、平和を保っていた。
裏では、主に貴族など社会的な地位の高い者たちが、敵対する宗派の者の足を引っ張り追い落とし合っていた。当時まだ幼かった支配人が気付くくらいだから、大人たちの態度はかなり露骨で、子供の耳に入るくらい薄暗い噂話が絶えなかったのだろう。
この屋敷は、そうした陰湿な争いで失脚した貴族の館だった。
「半世紀の内乱が終わっても、【巣懸ける懸巣】学派などの専門家が足りませんでしたので、度々戦場になって完全に破壊されてしまった南ザカート市やモースト市などは、結局、再建されませんでした」
レノは、故郷を失った湖の民の姿を自分たちに重ねてしまい、慌てて否定した。
……ネモラリス政府は、北ザカート市を復興させたんだ。ゼルノー市だってきっと、平和になったら立入制限が解除されるさ。
勿論、椿屋の自宅兼店舗を再建するのはずっと先になるだろう。だが、クルィーロに教えてもらった【炉】の術は【魔力の水晶】でも使える。リヤカーで屋台を引いてでも、復興作業員相手にパン屋の仕事をしようと思えばできるのだ。
……俺たちの帰る所は、なくなったりなんかしない。
「フィアールカ神官は、内乱中も合わせて三十年ばかり聖地でお勤めでしたが、急に『もっと直接、人助けをしたい』とおっしゃって、神殿を出てしまわれたのですよ」
「それが、運び屋さん……なんですか?」
質問したピナの声は少し震えていた。支配人が溜め息混じりに答える。
「左様でございます。ランテルナ島など、アーテル領に取り残されて、迫害を受けているフラクシヌス教徒の方々を助けていらっしゃるのだとか……」
ノックの音で、しんみりした空気が破られた。
「お食事の用意が整いました」
「わかりました。すぐにご案内します」
レノたちは、荷物の整理を後回しにして食堂へ降りた。
☆ファーキル君、家はグロム市にあっても、家族はもう居ない……「173.暮しを捨てる」「175.呪符屋の二人」「198.親切な人たち」「199.嘘と本当の話」参照
☆【跳躍】できない人や、初めての人を聖地に届けるのが私のお仕事なの……「176.運び屋の忠告」参照
☆ドーシチ市の屋敷の時と同じ……「246.部屋割の相談」参照
☆モースト市などは、結局、再建されませんでした……「299.道を塞ぐ魔獣」参照
◆ このエピソードから派生した話があります。
「明けの明星」https://ncode.syosetu.com/n2223fa/
全4話。9,844文字。ホテルの支配人が主役。




