534.女神のご加護
レノたちは久し振りに地上に出た。
午後の日射しは穏やかで、空には秋らしい羊雲が高い所に浮かぶ。移動販売店プラエテルミッサの一行は、大きな荷物を抱えて運び屋フィアールカの後をついて行った。
「ラクリマリスは今、腥風樹の件でちょっとゴタついてて、難民を受け容れてたとこにネーニア島からの避難者が入ってて、ちょっと高めの宿しか空きがなかったの」
みんなの心配がフィアールカの背中に刺さる。湖の民の運び屋は、お構いなしに明るい声で説明を続けた。
「王都自体は特に被害を受けてないから、割と平和よ。ネモラリス難民の支援団体も幾つか活動を続けてるし、船を待つ間、そう言う人たちと縁を繋いどけば、ネモラリス島に行ってからも何とかなるんじゃない?」
「その人たちは、【跳躍】で行き来してるんですか?」
レノが聞くと、フィアールカは前を向いたまま答えた。
「そうよ。ラゾールニクさんたちと協力してる団体もあるから、彼に紹介してもらえばいいんじゃない?」
フィアールカとラゾールニクは一度、クロエーニィエの店で顔を合わせたらしいが、それ以前からの知り合いなのか、それから連絡を取り合うようになったのか、随分、気楽な調子で言った。
一行は、ランテルナ島最大の都市カルダフストヴォーの東門を出る。
なだらかな丘からラキュス湖を見下ろすが、王都ラクリマリスがあるフナリス群島は、水平線の彼方で霞んでよく見えなかった。
鞄や袋をたすき掛けにして、みんなで手を繋ぐ。フィアールカが朗々と【跳躍】の呪文を唱え終わると、風景が一変した。
ラキュス湖から吹き上がる風がレノの頬を撫でる。
移動販売店プラエテルミッサの一行は、小高い丘の上に立っていた。湾を抱く広大な都は、レノの想像を遙かに超え、言葉も出ない。
「ここは王都の西の外れよ。日が暮れる前に門を通りましょうねー」
フィアールカの声に思わず振り向くと、湖の民の背後には収穫を終えた麦畑が見渡す限り広がり、鳩や雀が落ち穂を啄ばむのがそこかしこに見えた。
王都に目を戻すとキラキラ輝く道に沿って建物が並び、大地の色や緑色の屋根が連なり、所々に白く大きな建物が見える。あの道は水路で、一際大きな建物は神殿だろう。水路はレノの眼にもそれとわかる巨大な魔法陣を成し、王都を巡った水は北の湾に注ぐ。水路の畔に整然と並ぶ街路樹が緑の帯を作っていた。
「王都全体が……大きな魔法陣になってるんですね」
薬師アウェッラーナの呟きに自治区民四人の顔色が変わる。
……アウェッラーナさん、何でわざわざそんなコトを……あ、でも、何も知らずに行く方がイヤかな?
レノは恐る恐るソルニャーク隊長を窺った。隊長は小さく息を吐き、王都の南に目を向けて聞く。
「どんな効果があるのですか?」
「王都に居る力ある民から少しずつ魔力を分けてもらって、大神殿に安置されてる女神の涙に集める陣よ。それと、後はまぁ普通にどこにでもある【魔除け】とか、街を守る系の陣ね」
「そうか……」
運び屋フィアールカの説明に短く答え、ソルニャーク隊長は王都の南の外れにある主神フラクシヌスの神殿から視線を外した。
湖の民の運び屋は、キルクルス教徒の四人をチラリと見て付け加える。
「知らないなら教えてあげる。ラキュス湖の水は、今もずっと女神の涙から生まれてるの」
「えっ?」
それにはフラクシヌス教徒のレノたちも驚いた。思わずクルィーロを見たが、幼馴染も呆然と聖地を見詰める。
王都の南の外れには、誰かが箱庭にポンと置いたような岩山が聳え、その麓に巨大な樹が枝を広げていた。大樹を囲む白い建物が、この丘からもはっきり見える。
レノは神話の一節を思い出した。
ずっと昔の大昔、アルトン・ガザ大陸で三界の魔物が生み出されるより遙かな昔。
この辺りは草原だったが、ある時、旱魃の龍が現れて砂漠に変えてしまった。多くの人が緑の大地を取り戻そうと龍に挑んだが果たせず、砂に変えられた。
全てが砂に呑まれるのか……乾きと絶望に包まれる頃、草原の民とリンフ山脈の南から来た民が協力して、旱魃の龍を封印した。
一人は岩山、一人は秦皮の大樹と化して旱魃の龍を抑え込み、一人は乾きを潤す為、自らの【魔道士の涙】を差し出した。それが、岩山の神スツラーシ、主神フラクシヌス、湖の女神パニセア・ユニ・フローラだと伝えられている。
そうして生まれた湖は「涙」と呼ばれるようになった。
湖の民パニセア・ユニ・フローラの子孫が称する家名の「ラキュス」は本来、「湖/水/墓」の意だが、この地方では、神話から「涙」の意も持つ。ネーニアは「歌/呪文/悲歌/挽歌/子守唄」だ。
フラクシヌスの子孫とパニセア・ユニ・フローラの子孫は現在に至るまで、協力して封印と水を生み出す【魔道士の涙】を守っている。
湖の民ラキュス・ネーニア家は民主化後、下野して祭祀に専念するようになったが、旧ラキュス・ラクリマリス王国時代までは、陸の民の王家ラクリマリス家と共に数千年に亘ってこの地を治めていた。
ラキュス・ネーニア家が統治から手を引いても、相変わらず、この地は女神のご加護によって潤されている。
「神話は、昔の人の与太話なんかじゃないのよ。あのキラキラ光ってるのは女神の涙……青琩って呼ばれるパニセア・ユニ・フローラ様の【魔道士の涙】から生まれた水よ」
「女神への信仰が失われれば、湖が干上がるとでも……?」
ソルニャーク隊長が表情のない声で聞く。湖の民の運び屋はあっさり頷いた。
「実際、ずっと昔に信仰の危機があって、秦皮が枯れて水位が下がったわ。地質学的な証拠もあるから、気になるなら調べてみればいいんじゃない?」
「いや、いい。わかった」
……隊長さんは、異教の信仰を否定しないんだな。
大抵のキルクルス教徒は、ラキュス湖の水位が下がった原因を単なる気候変動だと決めつけ、フラクシヌス教の信仰を頭から否定する。
確かに、雨が少ない時期があったからだと言われれば、実際に女神の涙……「青琩」から水が生まれるのを見たことのないレノには言い返せない。
レノは、ソルニャーク隊長……キルクルス教徒の元テロリストの静かな横顔を意外に思って見詰めた。
☆フィアールカとラゾールニクは一度、クロエーニィエの店で顔を合わせた……「455.正規軍の動き」参照




