530.隔てる高い壁
検問所の詰所から出た途端、工場の操業音が耳障りに響く。湖の民の呪医は【跳躍】を唱え、鉄鋼公園へ戻った。
中央市民病院の廃墟は崩落の恐れがある。焼け焦げた巻貝型の遊具に【簡易結界】を巡らせ、中に腰を降ろした。コンクリート製遊具の外側は焦げていたが、内部は無事だ。
テロから逃れた市民の誰かも、きっとここで夜を明かしただろう。
……それにしても、瓦礫の撤去すらしないというのは、どう言うことだ?
空腹感はなく、久し振りに長い距離を歩いた疲れで、その疑問の先を考える前に意識がなくなった。
翌朝、ニェフリート運河に出て【操水】で衣服ごと身体を洗い、喉の乾きも潤した。
たくさんの魚が群れて泳ぎ、朝の光に鱗をきらめかせる。もう一度【操水】を唱え、魚を含めて水塊を陸に揚げてみた。魚は水流に逆らって次々と運河へ逃れ、地面に落ちた魚もビチビチ跳ねて水へ戻ってしまった。薬師アウェッラーナのように【漁る伽藍鳥】学派の術が使えなければ無理なのだと諦め、水塊を運河へ戻して歩きだす。
空襲で穴を穿たれた大通りに沿って南西へ進み、ミエーチ区に入った。
かつて市バスが走っていた通りには、思ったより車の残骸が少なかった。先のテロでは、乗用車を所有する住人の大部分が避難できたのだろう。
住宅街は基礎や僅かなレンガが焼け残っただけで、瓦礫は少ない。
それぞれの家に家財道具や個人の持ち物、アルバムなど思い出の品があった筈だが、そんな物は初めからなかったかのように見渡す限り灰に埋もれていた。
運よく生き延びた街路樹と庭の跡に生えた雑草だけが、灰色の風景の中で活き活きとしていた。日射しを遮るものがなく、日中なら力なき民でも雑妖に足を掬われる心配はなさそうだ。
バス道に沿って南下を続けると、焼け落ちたアーチ型の看板に出食わした。支柱が熱で変形し、片膝をついて項垂れるような恰好で商店街の入り口を示してる。
個人商店は一棟も残っていなかった。
鉄筋コンクリートの小ぶりなビルが、あちらにポツリこちらにポツリと取り残されている。近付くと、窓ガラスが蒸発し、内部の物は原形を保ったまま炭化していた。【巣懸ける懸巣】学派の術である程度は守られたが、火勢が【耐火】の効力を上回ったか、途中で魔力が尽きたのだろう。
商店街の焼け跡を抜ける頃、呪医セプテントリオーはようやく空腹を覚えた。ランテルナ島の拠点からは何も持ち出していない。
白衣のポケットを探ると、ファーキルがくれた緑青飴が入っていた。有難く一粒口に含み、惨状を目に焼きつけながらピスチャーニク区に入った。ひしゃげて地に落ちた区名の案内板が初秋の風にカタカタ音を立てて揺れる。
程なく、クブルム山脈の裾野に延々と続く灰色の塀が見えてきた。ゼルノー市とリストヴァー自治区を隔てるそれだけが健在で、手前には無事な建物がない。
西へ目を向けると、コンクリート造りの建物がほんの少し残っていた。鉱業関連企業のビルや工場だろうが、きっと中は商店街のビルと同じだろう。
呪医セプテントリオーは自治区と外界を隔てる塀に手をついて見上げた。
ひやりと冷たい塀は五メートル程の高さで、その上には有刺鉄線まで張り巡らされている。【飛翔】の術が使える者なら、こんな塀はないも同然だ。
一歩退がって呪文を唱えた。
「地の軛 柵離れ 静かなる 不可視の翼 羽振り行く 天路雲路を 縦舞う」
灰に覆われた地を蹴ったが、湖の民の身は浮かなかった。身に纏わせた魔力が霧散する。
……今、確かに術が発動した筈なのに……?
首を捻り、再び同じ呪文を唱えたが、結果は同じだった。どうやら、ゼルノー市側からこの塀の付近に【消魔】の術が掛けられているらしいと気付き、塀から離れて西へ歩いた。もっと暑い時期なら、白衣の【耐暑】が失効して、もっと早くに気付いただろう。
先程、遠目に見えたビルは案の定、窓ガラスを失っていた。
だらだら続く坂を登ってピスチャーニク区の西端まで歩くと、その先のゾーラタ区には緑の木々と畑、点在する農家が無傷で残っていた。北部の市街地は恐らく空襲を受けているのだろうが、ここから見える範囲の農村地帯は無事だった。
立入制限で立退かされていなければ、まだ住人が居るかもしれない。
呪医セプテントリオーは区境のバス道を越え、ゾーラタ区に入った。
畑の麦はキレイに刈り取られている。別の畑では、茄子がたわわに実り、その隣の畑にも大きな南瓜がゴロゴロ転がっていた。
……麦の収穫は……六月か七月だ。
空襲に遭わなかったから留まったのか、畑が気になって戻ってきたのか。或いは、焼け出された者が勝手に住みついたのか。
呪医セプテントリオーはアスファルトで舗装されていない農道に出た。雑草が生い茂るが、タイヤの跡は踏み固められた土がむき出しになっている。茄子畑には雑草がなく、つい最近、手入れされたばかりのようだ。
視界の端で何かが動いた。
警戒しながら視線を向ける。南瓜畑の向こうで人影が立ち上がり、農道に出てきた。呪医セプテントリオーは小声で【跳躍】を唱え、結びの言葉の手前で止めて待つ。
人影は草刈り鎌を手に勢いよく走ってきた。呪医は大きく息を吸い、【跳躍】に備えて魔力を巡らせる。
「呪医、呪医ーッ!」
男性は満面に笑みを広げ、駆け寄って来る。
顔が判別できる位置まで近付いてやっと、以前、交通事故で救急搬送されてきた患者だと思い出した。傷はセプテントリオーが術で癒したが、出血が酷かったことと感染症の為、二週間程ゼルノー市立中央市民病院に入院していた。
「呪医……これ、ゆ……夢じゃないですよね」
年配の農夫は息を切らせて呪医の前で立ち止まり、目を潤ませる。その胸で【畑打つ雲雀】学派の徽章が揺れた。
「夢じゃありませんよ。お元気そうでよかったです」
「呪医もご無事でよかった。立ち話もアレなんで、ウチで昼飯食ってって下さいよ」
「ご家族のみなさんも、残っていらっしゃるんですか?」
「うん、まぁ、その辺も、ウチで……」
呪医セプテントリオーは、それ以上言わず、大地の色の髪に白いものが混じる農夫の後について行った。
☆テロから逃れた市民……「023.蜂起初日の夜」参照




