0054.自治区の災厄◇
アミエーラと父は日没後、すぐ眠ることにした。
床板に拾った古新聞を敷き、その上に蔓草の敷物。その上で毛布に包まり、目を閉じる。
昨夜は一睡もできなかった。
疲れと睡眠不足のせいか、横になった途端、眠りに落ちる。
寝ている間は何も考えなくていい。辛いことも苦しいこともない。
アミエーラは、夢の世界で淡い幸せに浸った。
目覚めれば、指から水が零れるように消えてしまう。思い出さえ残らない。ささやかとも言えない微かな幸せだ。
その幸せが、今夜も煙で破られるとは、夢にも思わなかった。
激しく咳込みながら、跳ね起きる。
バラック小屋に煙が充満し、息も出来ない。父と二人、涙を流しながら外へ這い出た。
袖で口許を覆って周囲を見回す。
同様に出て来た人々が、右往左往する。
転倒し、踏まれた人の声が掻き消える。
「逃げてー! 早く逃げて―!」
「何だ、また火事かよッ!」
「火元はどこだ?」
咳込む音と色々な声が飛び交うが、状況はわからない。
避難する人の群が薄闇を無秩序に行き交う。薄明るいのは、火災の炎を煙が照り返すからだ。煙の柱があちこちから上がり、風に煽られ、壁となって通路を塞ぐ。
「おい、逃げるぞ」
父に声を掛けられ、アミエーラは状況を把握しきれないまま、歩きだした。
夜闇と煙で視界が利かない。咳込みながら、バラックの隙間を道なりに行く。
どこへ向かっているのか、火元から遠ざかっているのか。
人々の口から出る断片的な情報は、互いに矛盾し、幾つも重なり、打ち消し合った。どこへ行けばいいのか、どこへ向かっているのか。何もわからないまま、手探りで進む。
自分以外の誰にも構えない。いや、自分一人さえ守れない。
アミエーラは人波に揉まれながら、為す術もなく押し流された。
どのくらい流されたのか、気が付くと、少し広い場所に居た。
足下に枯れ草の感触。シーニー緑地まで来たらしい。今夜涌いたばかりの雑妖が、アミエーラの足下に纏わりつく。
「父さん、父さんッ!」
ざわめきと咳の音の中に耳を澄ます。
父の返事はなかった。
あの状況では、はぐれない方が奇跡だ。
当然の結果だとわかっていても、不安と動揺で心が押し潰されそうになる。
……落ち着いて、落ち着いて。
自分に言い聞かせながら見回す。
この辺りは暗く、まだ遠い火災の炎にうっすら照らされるだけで、人の顔まではわからない。
立ち昇る煙に覆われ、星明りは届かなかった。
皆一様に、燃える街を見詰める。
人はどんどん増え、アミエーラはじりじりと緑地の斜面を上った。
逃れて来た者たちは、「別世界」である団地の区画まで上がらず、斜面に張り付き、自分たちの街を振り返る。
アミエーラは、団地の区画まで上がった。高台からバラック地帯を見下ろす。火の手は、複数の場所から上がっていた。
一度にこんなにたくさん火災が起こるとは考え難い。誰かが放火したと見るのが自然だ。
……誰が、こんな酷いことを……?
考えるまでもない。
昨日の報復だ。魔法使いが火を放ったに決まっている。
……でも、酷いじゃない。やるんなら、あっちの街を焼いた連中だけにしてくれればいいのに。
見当違いな報復をする魔法使いにも、勝手に武装蜂起した過激派も、アミエーラを含む多くの自治区民にとって、迷惑でしかなかった。
力なき民のキルクルス教徒は、街を呑む炎を呆然と眺めるしかない。
「燃えてるなぁ……」
「あぁ、燃えてるなぁ……」
誰かがポツリと呟いた言葉に、見知らぬ誰かが同意する。
あまりの火勢に、火を消すことに思い至らない。いや、思ったところで、井戸水を汲み上げるバケツリレー程度で消し止められる状況ではなかった。
泣くことも嘆くことも怒ることもできず、ただ、現状を目に焼き付ける。
アミエーラも、シーニー緑地へ逃れた人々の中に父を捜せず、魅入られたように炎を見た。
東の空が白む頃になっても、まだ、火勢が衰えない。
風に煽られ、火の粉を吹き上げ、夜の残りを焦がす。
炎は南と西へ燃え広がった。火の手は緑地の手前にまで迫り、避難民は団地の敷地まで後退した。
すっかり明るくなっても、街を焼く火は衰えなかった。
意思を持つかのように無傷の地区へ向かい、燃える物を次々と呑み込む。煙が風に流れ、可燃物のなくなった区画が朝日の下で黒く見えた。
団地の住人は窓を閉め、カーテンを引いて息を殺す。
逃げ延びた人々は、風に吹き寄せられる煙に激しく咳込んだ。着の身着のままで焼け出され、寒さを防ぐ物も何もない。
どのくらい経ったのか、寒さに震えていると、警察官と腕章を巻いた区役所職員が誘導に来た。
公民館で食糧の配給をすると言う。
空腹感はなかったが、アミエーラもみんなについて行くことにした。
明るくなってから、改めて見回す。髪や衣服が焼け焦げ、火傷を負った姿が目に付いた。
アミエーラは、自分の顔と身体を両手で探った。今のところ痛む部分はない。
父の安否がわからず心配だが、これからもらう食糧を半分取っておいて、後で捜しに行くことにした。
焼け出された住人が、大通りをぞろぞろ歩く様は異様だった。
誰もが殆ど喋らない。時々聞こえるのは、警官の誘導と負傷者の呻きだ。
視界の隅に仕立屋の看板が入った。
……あ、そうだ。店長さんに、お父さんを捜すから休ませて下さいって言わなきゃ。
アミエーラは人波を掻き分け、勤め先へ向かった。
★第二章 あらすじ
二月二日のできごと。
自治区に住むアミエーラは、号外を配る少年から「自治区の星の道義勇軍と、政府軍が戦争を始めた」と知らされる。
薬師 アウェッラーナは、廃墟と化したゼルノー市民病院で負傷者の治療を手伝う。
ゼルノー市セリェブロー区在住の少年ロークは、運河の対岸で繰り広げられる惨状に言葉を失う。
市民病院を襲撃した星の道義勇軍の生き残りは、病院職員らと警察官の手で捕縛された。
クルィーロは妹のアマナと、レノの妹のピナティフィダ、エランティスを救出し、鉄鋼公園に辿り着いた。
捕縛された少年兵モーフらは、護送車の中で焼魚を与えられる。
人波に流されたレノは、ミエーチ区の児童公園で夜を過ごし、一人、鉄鋼公園へ向かう。
ロークは、決意を固め行動を開始した。
その夜、リストヴァー自治区が災厄に見舞われる。
※ 登場人物紹介の一行目は呼称。
用語と地名は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご確認ください。
【思考する梟】などの術の系統の説明は、「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」にあります。
★登場人物紹介
◆湖の民の薬師 アウェッラーナ
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
隔世遺伝で一族では唯一の長命人種。外見は十五~十六歳の少女(半世紀の内乱中に生まれ、実年齢は五十八歳)
実家はネーニア島中部の国境付近の街、ゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営む。
父と姉、兄、甥姪など、身内で支え合って暮らしている。
ゼルノー市ミエーチ区にあるアガート病院に勤務する薬師。
魔法使い。使える術の系統は、【思考する梟】【青き片翼】【漁る伽藍鳥】【霊性の鳩】
呼称のアウェッラーナは「榛」の意。
真名は「ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフ」
◆パン屋の青年 レノ
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。十九歳。濃い茶色の髪の青年。
ネーニア島のゼルノー市スカラー区にあるパン屋「椿屋」の長男。
両親と妹二人の五人家族。パン屋の修行中。
レノは、髪の色と足が速いことからついた呼称。「馴鹿」の意。
◆ピナティフィダ(愛称 ピナ)
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。中学生。二年三組。濃い茶色の髪。
レノの妹、エランティスの姉。しっかりしたお姉さん。
生まれた時期に咲いていた花の名を呼称にしている。
◆エランティス(愛称 ティス)
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。小学生。五年二組。濃い茶色の髪。
レノとピナティフィダの妹。アマナの同級生。大人しい性格。
生まれた時期に咲いていた花の名を呼称にしている。
◆工員 クルィーロ
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。工場勤務の青年。二十歳。金髪。
パン屋の息子レノの幼馴染で親友。ゼルノー市スカラー区在住。
両親と妹のアマナとの四人家族。
隔世遺伝で、家族の中で一人だけ魔力がある。
魔法使いだが、修行はサボっていた。使える術の系統は、【霊性の鳩】が少しだけ。
呼称のクルィーロは「翼」の意。
◆アマナ
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。クルィーロの妹。金髪。
小学生。五年二組。エランティスの同級生。ゼルノー市スカラー区在住。
生まれた時期に咲いていた花の名を呼称にしている。
◆少年 ローク
力なき陸の民。商業高校の男子生徒。十七歳。ディアファネス家の一人息子。
ゼルノー市セリェブロー区在住。家族とは相容れなくなり、家出する。
呼称のロークは「角」の意。
◆お針子 アミエーラ
陸の民。キルクルス教徒。十九歳の女性。金髪。青い瞳。仕立屋のお針子。
リストヴァー自治区のバラック地帯在住。
工員の父親と二人暮らし。
呼称のアミエーラは「宿り木」の意。
◆少年兵 モーフ
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の少年兵。十五~十六歳くらい。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
アミエーラの近所のおばさんの息子。祖母と母、足が不自由な姉とモーフの四人家族。
父は、かなり前に工場の事故で亡くなった。
以前は工場などで下働きをしていた。自分の年齢さえはっきりしない。
貧しい暮らしに嫌気が差し、家出してキルクルス教徒の団体「星の道義勇軍」に入った。
呼称のモーフは「苔」の意。
◆隊長 ソルニャーク
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の一部隊の隊長。モーフたちの上官。おっさん。
呼称のソルニャークは「雑草」の意。
◆元トラック運転手 メドヴェージ
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の一兵士。おっさん。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
以前はトラック運転手として、自治区と隣接するゼルノー市グリャージ区の工場を往復していた。
仕事で大怪我をして、ゼルノー市ジェリェーゾ区にある中央市民病院に入院したことがある。
呼称のメドヴェージは「熊」の意。
◆市民病院の呪医
湖の民の男性。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
ゼルノー市立中央市民病院に勤務する唯一の呪医。
【青き片翼】学派の術を修め、主に外科領域の治療を担当。
◆葬儀屋
湖の民の男性。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
【導く白蝶】学派の術を修めた葬儀屋。
商売柄、服には【魔除け】や【退魔】などの呪文を刺繍してある。
自前の魔力が尽きない限り、この服を着ている間は常時、それらの術が葬儀屋を守っている。




