527.あの街の現在
移動販売店の者たちがゼルノー市に戻っても、生活を再建できるのはずっと先になる。
……立入制限が解除されるまでは、何もできないし、何もかもが止まったままだ。
何故、立入制限をするのか。いつ解除されるのか。
再建を諦めて無人の荒野に戻る可能性に気付き、次々と浮かんだ疑問が吹き飛ばされた。
改めて焼け跡を見回す。
炭と煤、灰、崩れたコンクリートやレンガの中に雑草や生き残った街路樹などの緑が点々と見える。その中で動くのは、地に落ちて風で揺れる熱で反った看板や、鳩や鴉、どこからか飛んできた羽虫やトンボなどだ。人間の姿はない。
初秋の午後。
去年の今頃はこの公園で遊び戯れる子供たちの声が、セプテントリオーが勤務先する市民病院まで届いていた。
ランテルナ島とネーニア島。
同じひとつの青空の下で、こんなにも差が付いた理不尽に遣る瀬なさが募る。
呪医セプテントリオーは、崩れた建物で半ば埋もれた大通りを歩き、ニェフリート運河に出た。
橋が落ち、乗用車が何台も沈んでいる。中に遺体がないのは、魔物に食われたからだ。暗く澱んだ流れに魚影と異形の姿が見えた。【飛翔】の術を使えば対岸のセリェブロー区に渡れるが、運河の北も一面の焼け野原だ。蔓延った雑草が物悲しく風にそよぐ。
運河に沿って東へ歩いた。
所々レンガが吹き飛んだ遊歩道を踏みしめ、時折立ち止まっては南側に視線を向ける。非番の日に買物をした商店街は跡形もなく、遙か南のクブルム山脈がはっきり見えた。
五分ばかり歩いて、官舎があった辺りに立ち寄ったが、瓦礫の山があるだけだった。
大勢の医師と看護師、その家族の家財道具は焼けてしまったらしい。瓦礫の山は悲しいくらい小さかった。
人々の暮らしが失われた街をとぼとぼ歩き、ジェリェーゾ港に出た。
半世紀の内乱前は、ネーニア島東岸随一の漁港だったが、多くの魔道機船と【漁る伽藍鳥】学派の漁師が失われ、かつての繁栄は消えてなくなった。
三十年掛かってやっと僅かに賑いが戻りつつあったが、アーテル・ラニスタ連合軍の空襲で、完膚なきまでに叩き潰された。
水揚げ用のクレーンは破壊された岸壁と共に湖水へ沈み、水産加工場は焼け落ちている。
沖合で水鳥が湖に飛び込み、魚を咥えて飛び上がった。
初秋の光を受けて輝くラキュス湖は穏やかで、陸上の悲しい出来事とは全く無縁に感じられた。
……パニセア・ユニ・フローラ様。
湖の民の呪医は緑の頭を垂れ、ここで奪われた全ての命の為に祈りを捧げた。
破壊された漁港の跡地を南へ向かって歩く。
飴のようにひしゃげた鉄骨に空襲の激しさを教えられ、肌が粟立った。ジェリェーゾ港には一隻の船もなく、爆弾が直撃した穴がそこかしこに穿たれている。
薬師アウェッラーナの父は、ゼルノー市立中央市民病院に入院していた。呪医セプテントリオーは、あの年老いた患者が漁師だったことを思い出した。
……仮に魔哮砲が本当に魔法生物を兵器化したモノだったとして、何故、そんなモノとは無関係に暮らしていた人たちが焼かれなければならないんだ?
入院患者も、その家族も、誰ひとりとして魔哮砲の存在そのものを知らなかっただろう。
そうでなければ、ラジオのニュースで魔哮砲について、あんなにも繰り返し詳しく報じる必要はない。セプテントリオーも、ラジオの報道で初めて存在を知った。
半世紀の内乱の痛手からようやく立ち直りつつあった人々の傷口に塩をすり込むようなことが許されていい筈がない。だからと言って、オリョールたちのような武力による報復が正しい行いだとは言えなかった。
セプテントリオーが王国軍の軍医だった頃、敵は人間を脅かす魔物や魔獣、疫病などだった。
人間の国家、人間の軍、人間のゲリラを相手にどうすればいいのか、半世紀の内乱を生き延び、齢四百年を越えたセプテントリオーにも答えはわからなかった。
ジェリェーゾ区を抜け、南隣のスカラー区に入ったが、ここも無人の焼け跡だった。制限区域への立ち入りを咎める兵すら居ない。
呪医セプテントリオーは瓦礫に行く手を阻まれ、港を出て国道に出た。道沿いに商店街があった筈だが、何も残っていない。
テロの直後、市民病院の駐車場で医師や看護師にパンを配っていた男性が居た。
忙しさに紛れてすっかり忘れていたが、彼は市民病院に減塩や無塩のパンを納入していたパン屋の店主だった。星の道義勇軍のテロからは生き残っていたが、その後の空襲でどうなったのか。
多くの患者がテロで殺され、北のマスリーナ市への避難途中にアーテル・ラニスタ連合軍の空襲に晒された。
ゼルノー市に人が居ないのは、多くがこの世を去ったからでもあると思い到り、セプテントリオーの歩みが鈍る。それでも、リストヴァー自治区には足を踏み入れたことがないので【跳躍】できず、埃っぽい風の中を自分の足で歩くしかなかった。
焼き払われたスカラー区を抜け、南隣のグリャージ区に入る頃には、かなり日が傾いていたが、呪医セプテントリオーは構わず歩みを進める。
ソルニャーク隊長と運転手メドヴェージ、少年兵モーフ、それに針子のアミエーラの帰る場所を確めておきたかった。
しばらく行くと、風に乗って物音が聞えてきた。
立ち止まって少し耳を澄ましたが、何の音かよくわからない。再び南へ向かうにつれ、音が大きくなった。
西の空が杏色に染まる頃、無人の工事現場に出た。
街の【魔除け】や【結界】が失われた状態で、日没後も作業を続けるのは危険だ。作業員は安全の為、早めに引き揚げたのだろう。
住人が立入る心配がないからか、工事看板も立入禁止の囲いもないが、重機が置かれ、明らかに人の手が入っている。見たところ、かなり復旧が進んでいた。
グリャージ港は付近の工場用の貿易港だ。
ここが復旧すれば、周辺の工場の再建も進むだろう。工場が再建されれば、従業員の住居や、生活を支える商店なども建て直せる。
……ここに、人の営みが戻って来る。
ゼルノー市は完全に放棄されたワケではないとわかり、呪医セプテントリオーは明るい兆しに安堵した。
瓦礫が撤去されて復旧工事が進む港を南へ歩くと、完全に再建された区画に行き当たった。
真新しい倉庫の扉は、開け放たれたままだ。中を覗くとコンテナが積まれ、壁には【魔除け】などの呪文が刻まれているのが見えた。
港には船がない。
泊まれる場所がないから、日が暮れる前にどこか他所の港へ引き揚げたのだろう。
遙か南には工場の煙突が見えた。リストヴァー自治区の工場だ。
煙は出ていないが、工場の建屋が無事らしいことがわかり、呪医セプテントリオーは複雑な気持ちで歩みを進めた。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
黄昏の薄闇に漂い始めた雑妖を蹴散らし、真新しいアスファルトが敷かれた国道を更に南へ向かう。
日がとっぷり暮れる頃、リストヴァー自治区の検問所に辿り着いた。門扉は固く閉ざされ、中の様子は窺い知れない。
監視小屋の窓から【灯】の青白い光が漏れているのに気付いた。グリャージ区側の門にネモラリス軍の詰所があるのを思い出し、呪医セプテントリオーは小屋に近付いた。
☆パンを配っていた男性……「023.蜂起初日の夜」「024.断片的な情報」参照
☆市民病院に減塩や無塩のパンを納入……「021.パン屋の息子」参照
☆その後の空襲でどうなったのか……「056.最終バスの客」「070.宵闇に一悶着」「071.夜に属すモノ」参照




