526.この程度の絆
葬儀屋アゴーニが、行き先も告げずに【跳躍】する。
湖の民の呪医セプテントリオーは、同族の姿が消えた庭園でぼんやりと夜明けの空を見上げた。
あんなに騒いでいた蝉がいつの間にか静かになり、明けたばかりの薄明に浮かぶ雲は高く、すっかり秋めいている。スニェーグが訪れた日と同じことを考えながら見上げる朝の空気は、数日前よりずっと澄んでいた。
周囲の森で鳥たちが目を覚まし、塒を出て囀り始める。
宣言通り、武器職人は去った。
オリョールに頼まれたクリューヴは、老婦人シルヴァが連れてきた新入りを北ザカート市の廃墟の拠点に連れて行き、残った武器と防具の扱いを教えている。
どこかへ行った警備員オリョールはまだ戻らず、ランテルナ島の森に隠された拠点に残るのは、呪医セプテントリオーとジャーニトルだけだ。
湖の民の警備員ジャーニトルは資料室に籠り、呪医がファーキルたちに手伝ってもらって収集、整理した新聞の切り抜きなどを読んでいる。
あんなに賑やかだった拠点は、移動販売店のトラックが去ってから火が消えたように静かになった。
いつもなら、あの子らは雀が囀り始めるこの時間に起きて、パンの仕込みや畑仕事などをしていた。
オリョールが言った通り、ジャーニトルは温厚で物静かな青年で、あのゲリラたちと行動を共にしていたのが不思議なくらいだ。あの子らが作った小さな畑は、ジャーニトルが毎日世話をしたお陰で元気を取り戻している。
だが、彼は【急降下する鷲】学派の術を修めた魔法戦士で、アーテルのアクイロー基地襲撃作戦に参加していた。彼の魔法でどれだけのアーテル兵が生命を奪われたのか、想像もつかない。
……私たちの繋がりは、この程度のものだったのか。
そう言えば、友達になった覚えはなかった。
アゴーニがゼルノー市に登録された公式の葬儀屋で、呪医セプテントリオーの勤務先であるゼルノー市立中央市民病院に出入りしていたことしか知らなかった。
どこに住んでいるのか、年齢や家族構成、好きな食べ物など、個人的なことを何ひとつ知らないと気付き、アゴーニと共に過ごした日々が砂のように崩れ去る。
乾いた風が、白衣の裾を翻した。この白衣には、同色の糸で呪文などが刺繍されている。【耐暑】と【耐寒】の術に守られ、この風が夏の名残りで暑いのか、秋の始まりを告げて冷たいのかもわからなかった。
同じ場所に居ても、力なき民が多いあの子らと呪医セプテントリオーでは、風の感じ方ひとつ取っても違う。
この白衣を脱げば、同じ風を肌で感じられた筈だが、力ある民のセプテントリオーにはその発想がなかった。
アゴーニはどうだったろう。
魔法の服を脱ぎ、あの子らと同じ目線で同じ景色を見て、同じ風を肌で感じたから、袂を分かったのだろうか。
スニェーグはあれから姿を見せず、ラゾールニクも来ない。
話が途中で、王都ラクリマリスのどこへ行けば彼らに会えるのか、全く手掛かりがなかった。
地下街チェルノクニージニクへ行き、運び屋フィアールカに何かで対価を支払って連絡してもらえばいいのだろうが、今は何もする気になれない。
白薔薇の前に立ち、天を仰いで無為に時が過ぎる。
すっかり明るくなった空が、よそよそしく見えた。
あれから何日経ったのか、数えることすら億劫だ。
……早くここを離れなければ、オリョールが戻ればまた、戦いへ赴くだろう。
負傷者がここに戻った時、呪医として彼らを癒すだろうか。それとも、ネモラリス人として、武闘派ゲリラにトドメを刺すだろうか。
アゴーニが居ない今、ここで死者を出せば魔物が受肉してしまうかも知れなかった。この別荘は結界に守られ、外部からは魔物や魔獣は侵入できないが、内部で発生するモノはどうにもならない。
……それでは、ここで死なせない為に癒すのか?
「あんなの、助けなくていいです」
誰に言われたのか思い出せないが、その言葉だけが呪医セプテントリオーの胸に棘となって刺さって抜けない。
……これ以上、ここに居てはいけない。
呪医セプテントリオーは、開け放たれた門に視線を向けて幻の森を見詰め、力ある言葉で詠じた。
「鵬程を越え、此地から彼地へ駆ける。大逵を手繰り、折り重ね、一足に跳ぶ」
行く先は、ゼルノー市。
あの子らの帰る場所は今、どうなっているのか。
王都へ行く前に確めておきたかった。
「……この身を其処に」
結びの言葉を唱えると、風景が一変した。
焼け焦げた遊具が塩湖からの風ですっかり錆付き、焼け残った木々は焦げた枝から今年の葉を茂らせている。久し振りに訪れた鉄鋼公園には人影はなく、見渡す限り焼け野原が広がっていた。
こんな状態でも、雀たちは雑草の実を啄ばみ、賑やかに鳴き交わす。囀りは無人の空に吸い込まれ、一層、物悲しさを増した。
公園の外には、手つかずの瓦礫が横たわる。まだ日があるからか、瓦礫の影に雑妖は涌いていなかった。
多くの市民は星の道義勇軍のテロから逃れ、このジェリェーゾ区から運河を越えてセリェブロー区などに移動したが、北を向いても建物はひとつも残っていない。
何人が逃げ延び、どれ程の生命が奪われたのか。
一方的に焼き尽くされてから半年以上が経ち、怨嗟の声が薄らいだからか、ジェリェーゾ区はやけに静かだった。
セプテントリオーが外科の呪医として勤務していたゼルノー市立中央市民病院は、外壁だけを残して焼け落ちている。隣の警察署も同様で、星の道義勇軍のテロで受けた損傷に、アーテル・ラニスタ連合軍の空襲で追い打ちを掛けられ、全く使い物にならない状態だ。
ぐるりと見渡しても、見張りの兵や警官は居らず、【跳躍】除けの結界もなかった。
様子を見に戻った市民や火事場泥棒などが訪れたかもしれないが、今、鉄鋼公園に居るのは湖の民の呪医セプテントリオー唯一人だった。
……まずは瓦礫の撤去、それから整地と土地の浄化、再測量……都市計画もやり直しになるのか?
力なき民用の電気、ガス、水道などの復旧だけでもどれだけの歳月が掛かるのか。
呪医セプテントリオーは、半世紀の内乱からの復旧、復興がどうだったか思い出そうとしたが、当時は次々と運び込まれる負傷者の治療に明け暮れ、街の様子を観察する余裕など全くなかったことしか思い出せなかった。
来る日も来る日も、身の内に銃弾や破片を抱えた人々から異物を取り除いて傷を塞ぎ、中途半端な治療や自然治癒に任せてできた火傷痕の皮膚を剥がし、固まって動かなくなった部分をほぐしてキレイに再生させ続けた。
その内に工事関係者の打撲や骨折、捻挫などの労災事故や交通事故などの治療が増え、毎日【魔力の水晶】なしでは治療が追い付かない忙しさだった。
……市民病院の建物が再建されたのはいつだった?
和平から三年目だったか、五年目だったか。
それまでは、軍がテントを張っただけの仮設病院、後にプレハブ小屋が建ち、そこで寝起きと治療をしていた。
長命人種のセプテントリオーは、常命人種の人たちにとっては、三年も五年も長い道程であることに変わりあるまい、と遣る瀬なさに肩を落とした。
☆袂を分かった……「468.呪医と葬儀屋」「512.後悔と罪悪感」参照
☆スニェーグはあれから……「513.見知らぬ老人」参照
☆あんなの、助けなくていいです……「469.救助の是非は」参照




