513.見知らぬ老人
誰が【跳躍】してきたのかと、呪医セプテントリオーは目を凝らした。
雪のような白髪を頂いた老人だ。常命人種なのか、セプテントリオーの倍くらい生きた長命人種なのか、外見だけではわからない。
「こんばんは。シルヴァは居りますか?」
落ち着いた声で知り合いの名を出され、反射的に答える。
「外出しています。行き先や帰る時間は伺っておりません。失礼ですが、あなたは……?」
「この別荘の所有者の身内で、スニェーグと申します。あなたは、セプテントリオー呪医ですね? お噂はかねがね、ラゾールニクから耳にしております」
スニェーグと名乗った老人は、セプテントリオーが首から提げた徽章を見て言う。
ラゾールニクの用件は、スニェーグとの顔合わせだったと思い到り、改めて名乗った。
「申し遅れました。ご賢察通り、【青き片翼】の呪医セプテントリオーと申します。あなたが、ラゾールニクの言っていた武力に依らず平和を目指すグループの方ですか?」
「そうです。主な活動は、慈善コンサートです。その収益で、焼け出された人々や国外へ逃れた人々の支援を行っております」
夕日の残滓を背負い、老人の表情は窺い知れないが、その穏やかな声はセプテントリオーを安心させてくれた。
スニェーグは別荘の扉に顔を向け、変わらぬ口調で言う。
「ここの状況は、ラゾールニクから報告を受けております。この物件は私の所有物ではございませんので、使途について口出しできないのですよ」
声に申し訳なさそうな色を感じ、呪医セプテントリオーは思わず頭を下げた。
「いえ、こちらこそ厚かましく勝手を致しまして、恐れ入ります」
「呪医のせいではありませんよ。彼らに武力行使をやめるよう、ずっと説得して下さっていたのでしょう」
「ですが、私では彼らを止められませんでした」
顔を上げてスニェーグの言葉を聞いていたセプテントリオーは、項垂れた。湖の民の緑の髪が夕日を受け、何とも言えない色に染まる。
「彼らが求めているのは癒しや救いではなく、死に場所なのですよ」
スニェーグは老婦人シルヴァと同じ言葉を口にした。
「誰が何と言っても、半ば棺に入った者たちが耳を傾けることはありません。誰かの気を惹く為の狂言自殺ではなく、本当の絶望に囚われているのですよ」
「ですが……」
「それに、彼らの活動が、全く無駄で有害なだけだったワケではありません。外交上、人道上の問題は含んでいても、現にアーテル本土でのテロ対策に兵員を割かざるを得なくなってからは、空襲の頻度が下がり、アクイロー基地が壊滅してからの三日間は、偵察機すら飛んでいません」
……どこでその情報を手に入れたんだ?
諜報員ラゾールニクはアクイロー基地襲撃作戦には加わっておらず、今日までこの拠点に姿を現さなかった。
呪医は、オリョールたちから詳しい戦果を聞いていない。聞いたところで、それどころではなく、記憶に留まらなかっただろう。
「……その分、多くの人々が殺されずに済んだのですよ」
呪医セプテントリオーは、スニェーグの言葉を噛みしめた。
一見、正論のようだが、同意はできない。反論の言葉がみつからず、老人の肩越しに今日の残りの光を見た。
空の端に消えゆく光の中で、鴉の群が三々五々、塒へ帰る。
……鴉でさえ、帰る場所があると言うのに。
「呪医、王都へ行って下さいませんか? これ以上ここに留まったところで、得られるものも与えられるものもないでしょう」
その言葉に胸の奥が痛み、セプテントリオーは返事ができなかった。
「王都には、呪医のお力を必要とする人々が居ります」
「アミトスチグマの難民キャンプではないのですか?」
「はい。正確には……」
そこへ、湖の民の警備員ジャーニトルと、力ある民のクリューヴが戻ってきた。膨らんだ布袋を手に見知らぬ老人へ警戒の目を向ける。
「いつもシルヴァがお世話になっております。私もこの物件の所有者の身内です」
「親戚の方ですか。こちらこそ、すっかりお世話になってすみません」
「晩ごはん、ご一緒にどうですか? 木の実とかいっぱい採れたんで」
クリューヴが恐縮し、湖の民ジャーニトルが袋を上げてみせる。
「いえ、少し様子を見に来ただけですので、すぐにお暇しますよ。シルヴァも留守だそうですし」
「すみません。シルヴァさんは毎日居るワケじゃなくて、どこで何してるのか聞いても教えてくれないんで……」
クリューヴが眉を下げ、小さな声で詫びる。
「いえいえ、シルヴァの件はみなさんのせいではありませんから、お構いなく。それでは、今日のところはこれで失礼します」
白髪の老人スニェーグは愛想よく言って【跳躍】した。
「あ、呪医、水遣りしてくれたんですね。ありがとうございます」
「気が付かなくってすみません」
ジャーニトルが屈託なく礼を言い、クリューヴが申し訳なさそうに頭を下げる。萎れかけ、項垂れていた野菜の葉は、少し勢いを取り戻して空を見上げていた。
食堂に入ると、葬儀屋アゴーニが香草茶を淹れるところだった。
警備員オリョールと呪符職人、武器職人は空のティーカップを前に睨みあっている。気マズい空気を振り払おうと、ジャーニトルが殊更に明るい声を出した。
「今日は木の実がいっぱい採れたんだ」
布袋の口紐を緩めると、甘酸っぱい香りが溢れた。睨み合う三人は身じろぎひとつしない。クリューヴが、みんなにおどおど視線を巡らせ、床を見詰めた。
ゲリラの【魔道士の涙】をひとつ残らず諜報員ラゾールニクに持って行かれた今、諍いの種はなくなった筈だが、何故、こんなにも空気が張り詰めているのか、呪医セプテントリオーにはわからなかった。
葬儀屋アゴーニが宙に漂わせた水を沸かし、香草の束を投げ込む。草を含んだ熱湯が渦を巻き、清冽な芳香が食堂に広がった。香草茶を宙で大きく広げ、薬効のある芳香を行き渡らせてカップに注いだ。
アゴーニは出涸らしを皿に置き、何も言わずにカップを口許へ運ぶ。呪医ひとりがカップを上げ、小声で礼を言った。
老婦人シルヴァはまた、身を捨てる程に絶望した者を勧誘しに行ったのだろう。今のネモラリスには、何もかも失った者があまりにも多かった。
……ここに来なくても、力ある民はアーテルに土地勘があれば個人でも、戦いに行ける。
呪医セプテントリオーは、わかりきったことを心の裡に確認した。
彼らの全てを説得して、戦いをやめさせるのは不可能だ。身を守る為の【不可視の盾】を教えた者も、今はクリューヴ一人しか生き残っていない。
先程、スニェーグは何を言おうとしていたのか。少なくとも、武闘派ゲリラには聞かせられないのだろうが、具体的にどんな話なのかは皆目見当がつかない。
……王都で私の力が必要だって?
王都ラクリマリスは、フラクシヌス教の聖地を擁する信仰の中心地だ。
様々な系統の医術を修めた聖職者が大勢いる。アゴーニと同じ【導く白蝶】学派の術は、葬祭を執り行う必須の技能として、下級の神官でも修めていた。
世俗の病院や葬儀業者の代わりに、神殿や施療院で治療や葬祭を行う。
フラクシヌス教団の施療院が半世紀の内乱後、民間病院になったと言う話は聞いたことがない。
個人経営の小さな診療所の手伝いで、あんな言い方をするとは思えないが、他に何の力を求められているのか想像がつかなかった。
半世紀の内乱後、呪医セプテントリオーは、医療産業都市クルブニーカとその隣のゼルノー市くらいにしか行っていない。
知っている街の変わり果てた姿を見るのが怖かったからだが、今更ながら、ネモラリス共和国の「首都」として生まれ変わったクレーヴェルと、改めて「王都」に戻ったラクリマリスの様子くらいは確めておけばよかった、と後悔が押し寄せる。
……そうすれば、あの子たちをこんな所ではなく、もっと安全な場所へ送ってあげられた筈だ。
クロエーニィエの話では、あのフィアールカと言う湖の民の運び屋は、カネさえ払えば依頼をきちんとこなし、商売人としては信用できる人物らしい。
ファーキルは既にフィアールカに【跳躍】の代金を払っていた。トラックを諦めて、早くラクリマリスに【跳躍】してくれるよう、祈るしかない。
「どうやら、あんたたちとは上手くやって行けんようだな」
武器職人がカップを置いて宣言した。落ち着いた声は揺るぎない決断を告げ、誰にも反論を許さない。クリューヴが怯えた目でみんなを見回し、カップを顔に近付けた。
数呼吸置いて、湖の民ジャーニトルが聞く。
「ここを抜けた後、どうするんですか?」
「正規軍に武器の供出でもしようかと思ってる。あっちの拠点、俺の私物以外は置いてくから、好きに使ってくれ」
「そう。僕はもう少し様子を見させてもらうよ」
呪符職人の言葉で、オリョールが武器職人をちらりと見た。
「別に身内でも何でもない。ここでたまたま知り合って、素材の融通やら何やらの為に便利だからつるんでただけだ」
「僕の呪符の威力は、よくわかったよね? ま、素材があればのハナシだけど」
呪符職人がオリョールとジャーニトル、クリューヴを見回す。彼がどんな呪符を作り、アクイロー基地襲撃作戦でどんな恐ろしい戦果を上げたのか、誰も口にしない。クリューヴが、【編む葦切】学派の小柄な職人に見詰められ、怯えて縮こまった。
「俺も……【涙】がなくなったから、一旦ここ出るわ」
どこで何をするつもりなのか、葬儀屋アゴーニはその先を言わない。
……そうだ。同じ湖の民だと言うだけで、身内でもなんでもない。アゴーニにも、彼の信念と生き方があるんだ。
呪医セプテントリオーは香草茶のカップを置き、立ち昇る湯気の行方を見守る。戦いを否定し、説得を諦めた今、ここに残る理由は何ひとつ残っていなかった。
……何の協力を求められるにせよ、ここに居るよりはいいだろう。
呪医セプテントリオーは顔を上げ、正面に座る警備員オリョールを見た。
「俺もしばらくここを離れる。クリューヴ、留守番と新入りの訓練を頼む」
「くっ……訓練?」
クリューヴが背筋を伸ばし、脂汗を垂らす。オリョールは小さな溜め息と共に苦笑を洩らした。
「隊長さんとあの坊やに教えてもらった基本と、武器に発信機がついてないかの見極め方、【操水】と【不可視の盾】の使い方だけでいい」
クリューヴは声もなく、首振り人形のように何度も頷いた。
☆スニェーグと名乗った老人……「278.支援者の家へ」参照
☆老婦人シルヴァと同じ言葉……「279.悲しい誓いに」参照
☆彼がどんな呪符を作り、アクイロー基地襲撃作戦でどんな恐ろしい戦果を上げたのか……「460.魔獣と陽動隊」~「465.管制室の戦い」参照




