505.三十年の隔絶
「何ですって?」
仕立屋の店長クフシーンカは、朝刊の一面に目を疑った。
リストヴァー自治区には、アルトン・ガザ大陸のキルクルス教国から大量の支援物資が届いているが、紙やインクは優先順位が低く、ページ数は大幅に減っている。
新聞紙面には厳選された情報だけが載るが、一面では取り分け重要な情報が大きく扱われた。
アーテル陸軍 ツマーンの森に腥風樹の種子を蒔く
特大フォントの見出しの下に詳細を伝える本文とネーニア島の地図が続くが、仕立屋の皺深い手が震え、細かい文字が読めない。
朝刊を食卓に置き、クフシーンカは老眼鏡を外して眉間を揉んだ。固く目を閉じ、大きく息を吐く。改めて紙面に目を向けたが、内容が変わるはずもなく、老女の心臓は不吉に跳ねた。
……なんてことを。
アーテル共和国は、このネーニア島を完全に滅ぼすつもりなのか、とクフシーンカは全身に震えが走った。
齢九十を越えるクフシーンカは、力なき民の常命人種としては長生きな方だが、力ある民の長命人種には遠く及ばない。その知識の大部分は本から得たものだが、その本も自治区の罹災者支援事業の為に全て手放していた。
クフシーンカの中に残った知識は、アーテル軍の行いを度し難い愚挙だと断ずる。
この幽界の植物は毒を撒き散らし、この世の生き物を殺すだけでなく、春から秋にかけては自ら根を引き抜き、地を這って肥えた土を求めて移動するのだ。
ツマーンの森に植えられた腥風樹が、クブルム山脈を越えてリストヴァー自治区へ侵入しないと言う保証はない。恐らく、腥風樹の中で唯一無害な状態の種子をどこからか入手し、ネーニア島南部に広がるツマーンの森に蒔いたのだろう。
何故、わざわざラクリマリス王国領に侵入し、その国土を穢すのか。
クフシーンカはアーテル政府の考えが全く想像もつかず、胃の腑が絞め上げられたような心地がした。
国が分かたれて三十年。その間、同じ信仰を抱き続け、仲間のような気持ちでいた国の仕打ちに、己が如何に甘い夢を見ていたか思い知らされる。
「聖者キルクルス・ラクテウス様。闇に呑まれ塞がれた目に知の灯点し、一条の光により闇を拓き、我らと彼らを聖き星の道へお導き下さい」
クフシーンカは祈りの言葉を繰り返し唱え、何とか動揺を鎮めた。
三十年と言う歳月は、常命人種にとって、産まれた赤子が大人になって子を儲け、新たな世代と思想を育むに足る長い時間だ。
半世紀の内乱以前なら、数百年の時を生きる長命人種の隣人と暮らし、長い目で物事を捉えられる人が多かった、と思い出す。
このリストヴァー自治区では、特に内乱後に生まれた若い世代に刹那主義者が多い。
自治区東部の住民は、明日を考える余裕のない者が多く、特にその傾向が強かった。少し余裕が生じた今でさえ、彼らはその考え方の癖が抜けず、犯罪の発生件数が高止まりしている。
先日解雇した針子のアシーナのように、嘘と演技で固めた一時凌ぎでその場その場を誤魔化し切り抜け、悪事を働いて他人を食い物にしてでも、己だけがいい目を見ようとする者が少なからず居た。
国が分かたれ、「アーテル人」となったキルクルス教徒たちも、アシーナのような者が多いのだろうか。
小賢しく立ち回り、バレさえしなければ他人を陥れてでも自分の欲を満たすことを「智恵ある行いだ」と信じる者たちばかりなのだろうか。
クフシーンカは窓を開け、中庭の空を見上げた。
アシーナに教会で解雇を告げた日とは打って変わって、青い空に秋めいた雲が並んでいる。
あれから、彼女がどこでどうしているか、消息がまったく入って来ない。日々の忙しさに紛れ、誰も気にしていないのか、それとも、クフシーンカを気遣ってか。人々は嘘吐きな針子について噂ひとつしなかった。
今日からは、もっとそれどころではなくなる。
クフシーンカは気を引き締め、老眼鏡を掛け直した。
アーテル軍の愚挙からもう三日も経っている。リストヴァー自治区では、情報が遅いのはいつものことだ。
記事によると、アーテル政府とラクリマリス政府が、個別に今回の件についてインターネット上に記録映像を公開した、とある。
紙面の隅に小さく「インターネット」について簡単な注釈がついていた。
自治区でも少数の有力者が、アーテルやラニスタから第三国を経由して密輸した端末機を使い、ラクリマリス王国の電波に便乗して秘かに通信している。
……あの人たちはきっと、私より早く……いえ、新聞記者よりも先に情報を手に入れたんでしょうね。
弟のラクエウス議員の跡を狙う者たちは、クフシーンカにそれを伝えなかった。東地区の復興と罹災者支援に傾注し、いつお迎えが来るとも知れない老女クフシーンカは、既に彼らの眼中にないのだろう。
首都クレーヴェルの議員宿舎襲撃事件後は、以前のように区議主催の区画整理事業の会議に呼ばれることもなくなった。
淡水化プラントと下水処理場、上下水道、太陽光発電所、蓄電所、道路、教会、学校、商店街の店舗など、大火で焼失した東地区は、主なインフラがほぼ整い、元のバラック街とは別世界のようにキレイな街に生まれ変わった。
だが、多くの人は職を失い、生活を再建できず、寄付頼みの暮らしを送っている。
アルトン・ガザ大陸のキルクルス教国からの寄付は、いつまで続くかわからない。
民間のアパートや公営住宅の家賃を払えない人々は、プレハブの仮設住宅に住んでいるが、いつまでもそのままと言うワケにはゆかなかった。
個人商店や町工場が再建されれば、働き口は増えるが、小規模事業主の多くも命を失い、或いは身ひとつでどうにか逃れて再建資金を必要としていた。
商店街のハコは来月完成予定だが、入居の契約を結べたのはほんの一握りだ。
復興特需の建設ラッシュが終われば、失業者は更に増える。そうなれば、また、三十年前のことが繰り返されるかもしれない。
……区長たちは何をしてるのかしら?
ハコ物は随分キレイに整ったが、住民への生活支援は乏しかった。かつて商店街に軒を連ねた経営者には、新しくなった商店街への優先入居が約束されたが、資金援助は全く不十分で事業の再建には程遠い。
クフシーンカたちがささやかな支援事業を行う間、行政に目立った動きはなかった。
週に一度、大テントで湯を沸かし、洗濯と入浴の指導をする程度だ。確かに、衛生面は以前とは比較にもならないくらい向上し、病気は減った。洗濯代行で僅かな稼ぎを手にする者も現れたが、それだけで生活が成り立つワケではない。
クフシーンカは、紙面に意識を戻した。
双方の公開映像から、アーテル陸軍が腥風樹をツマーンの森に植えたことは確からしい。アーテル側も、ラクリマリスが映像を公開した翌日に肯定した。
その現場に偶然、居合わせた四人の男性と黒いモノについては、両国の見解が対立していた。
アーテルの主張は、黒いモノはネモラリス軍が兵器化した魔法生物【魔哮砲】で、四人の男性は民間の魔獣駆除業者を装って魔哮砲を回収しに来たネモラリス軍の正規兵だ、と言う。
対してラクリマリス側は、黒いモノの正体は未確認故に断定せず、四人は民間の魔獣駆除業者であると主張し、アーテル軍が王国領内に侵入して腥風樹の種を蒔き、民間人相手に発砲した件を厳しく批難していた。
ネモラリス政府は、ラクリマリス政府を全面的に支持しているが、両輪の軸党のアサコール党首とリストヴァー自治区代表のラクエウス議員が、ネモラリス軍の魔哮砲は兵器に転用した魔法生物である、との告発動画を公開したことから、政府内部の足並みは揃っていない――と記事は締め括られていた。
……ハルパトール。
クフシーンカは、思わぬところで接した弟存命の報で、胸がいっぱいになった。
溢れる涙を拭うことも忘れ、滲む視界で国会議員としての弟の名「ラクエウス」を何度も指でなぞる。ラクエウス議員たちはアミトスチグマの難民キャンプに居るらしい。
高齢のクフシーンカは、とてもそんな所まで会いに行けない。
……でも、映像と言うくらいだから、インターネットとか言うものがあれば、あのコの無事な姿を見られるのね。
区長たちに見せてもらえるように掛け合おう、との思いに駆られ、涙を拭って立ち上がる。
老眼鏡を掛け直した視界に記事が飛び込んだ。
告発映像――
ネモラリスの国益を損なう発言をした国会議員の身内の願いを聞き入れられるとは思えなかった。それどころか、スパイの身内として批難されるか、最悪の場合、投獄されるかもしれない。
クフシーンカは膝から力が抜け、ストンと椅子に腰を落とした。
どのくらいそうしていたのか、呼び鈴に心臓が跳ねた。
反射的に時計を見上げたが、そこには壁掛け時計の形にくっきり白い壁があるだけだ。
深呼吸で何とか動揺を鎮め、店に出た。
店の時計は、仕事の時間を告げている。クフシーンカは店長の顔になり、針子のサロートカを迎えた。
☆密輸した端末機……「276.区画整理事業」参照
☆議員宿舎襲撃事件……「277.深夜の脱出行」参照
☆区議主催の区画整理事業の会議……「156.復興の青写真」参照




