0005.通勤の上り坂
二月一日の朝は、いつも通りの静けさだった。
アウェッラーナは家を出て、勤務先のアガート病院に続く緩やかな坂を登る。
ゼルノー市は、ネーニア島の南東部、ネモラリス共和国とラクリマリス王国との国境近くにある。
かつては、国内最大の漁港として賑わい、水産加工場で働く人も多かった。
和平から三十年経った現在、焼き尽くされた港と工場は、以前の半分程度が再建された。多くの漁船が失われたが、何の補償もない。生き残った漁師には、船の建造を諦めた者も多かった。
アウェッラーナの一族は、多くの身内を失ったが、船が一隻だけでも無事だったので、まだ幸せな方だ。
食べ物に困らず、子供たちを学校に行かせることもできた。
アウェッラーナは、内戦中に教わった【思考する梟】学派の術を活かし、卒業後はあちこちの薬屋で働いた。アウェッラーナが仕事を続けられなかったのではなく、空襲で店を焼かれ、次々と働き先がなくなってしまったからだ。
今は、和平後すぐに再建された民間病院で働いている。
アガート病院は、ミエーチ区の高台にある。
吐く息は白いが、道行く人の大半が、春と同じ服装だ。
大人たちは、薄手のコートを湖から吹き上がる風に翻し、子供たちはコートもなしで、元気に駆けて行く。
子供を学校へ送りだす母親、店の前を掃除する人、犬の散歩をする老人、高台から港の職場へ降りて行く人……
毎日顔を合わせる人たちと、軽く会釈を交わしながら、ゆっくり歩く。
アウェッラーナの自宅は、ミエーチ区の東隣にあるジェリェーゾ区の漁港の近くで、歩けば四時間近くかかる。
よく知っている場所なら、【跳躍】を使ってほんの一瞬で行ける。
アウェッラーナは体力作りの為、児童公園まで毎日一時間、坂道を歩いた。そこから先は【跳躍】の術で跳ぶ。
この街では、建物には泥棒除けに侵入防止の結界があるが、公道上にはない。内戦時に失われて以来、再建できずにいた。
例えば、外国など市外から【跳躍】し、建物の外壁に爆弾を仕掛け、【跳躍】で逃げてから爆破する……などと言うテロの懸念がある。
その件は、新聞や雑誌でも毎年、和平合意記念日の前後に特集が組まれ、取り沙汰されている。
それでも、半世紀の内戦で失われた人材の育成が進まず、街全体を守る大掛かりな術を施せずにいた。
新しい世代は、平和な時代に生まれ、この状態を当然の物として暮らす。
……まぁ、でも、この先ずっとこんな感じなら、別にそんなの心配しなくていいし。
アウェッラーナは、何かからの連想で首をもたげた不安を宥めすかして、ゆっくりと坂を登る。
道行く人のほとんどが湖の民で、髪の緑が朝の光を受け、若葉のように輝く。
内戦中は、【魔道士の涙】にされないよう、黒や茶色に染める人もいた。今は、自然のままの髪を日に晒し、堂々と通りを歩ける。
……こんなのんびり歩けるなんて、子供の頃は全然、想像もつかなかったなぁ。
時折すれ違う陸の民の顔見知りとも、会釈を交わす。
湖から吹く風は冷たいが、魔法を使える住人は軽装だ。薄手のコートなどに【耐寒】の術を刺繍や染色で付与してあった。それを魔力のある者が着ると、術が発動して、寒さから守られる。
この街で着膨れているのは、力なき民……陸の民のフラクシヌス教徒だ。
年に一度の大樹祭や樫祭では、準備や本番で協力する。人種は違っても、秦皮の大樹フラクシヌスや湖の女神パニセア・ユニ・フローラの信仰で繋がっている。
……全然違うハズなのに、不思議よねぇ。
年配の陸の民は、先の内戦でどの陣営についていたのか、わからない。
同じ神々を信じている。
そのことで、その人も信じられることが、アウェッラーナには不思議に思えた。
他方、キルクルス教徒の力なき民は、ゼルノー市の南東に自治区を与えられ、フラクシヌス教徒とは離れて暮らす。
キルクルス教は、新しい時代の聖者キルクルスの教えを唯一絶対とする為、他の神々の存在を認めない。
また、「魔術なき新しい時代」を導くという教えに基づき、魔法の使用もよしとしない。
……その割に、内戦の時は、魔力が要る兵器を平気で使ってたけど。
店の前を通ると、ラジオのニュースが流れてきた。
「昨日午後、ラニスタ共和国北部の都市ジンクムの市場で、自動車爆弾が爆発。少なくとも二十人余りが死亡、負傷者は五十人以上に上ると見られます。
キルクルス教原理主義組織『星の標』が、この事件について犯行声明を出し、今後も魔法使いは人種・年齢・性別を問わず殺害する趣旨の宣言をしました。キルクルス教会は、テロへの批難声明を出し……」
ラニスタ共和国はラキュス湖南岸、アーテル共和国の東隣の国だ。
湖を挟み、ネーニア島の南隣でもある。ネーニア島の南半分は、ラクリマリス王国領なので、アウェッラーナの住むネモラリス共和国とは接していない。
……信じる神様が違うからって、同族まで殺すなんて。
折角の平和をわざわざぶち壊しにする者たちが、何を思ってそんな行動に出たのか、アウェッラーナには理解できなかった。
ラニスタ共和国は先の内戦で、アーテル地方のキルクルス教徒に武器を供与し、独立を支援した。自国は特段の被害を受けることなく、武器の売買で多額の利益を得た上、目論見通り、隣にキルクルス教国を樹立させた。
……もう充分じゃない。どうして、わざわざ血を流したがるの?
暗いニュースに足取りが重くなる。
テロや殺人事件のニュースに触れる度に、内戦時代を思い出してしまう。
……あの頃は、薬草とかも全然足りなくて、術を知ってても薬を作れなかったのに。
着の身着のままで焼け出され、敵兵に見つからないよう、瓦礫の隙間を逃げて暮した。
薬の作り方を知っていても、素材が焼けてしまっては作れない。あの頃は、助けられるはずの命を、幾つも見送るしかなかった。
仕事中にも、何かの折にふとあの頃の無力感に襲われることがある。
……もう二度と、あんなのはイヤなのに。みんながそう思ってるワケじゃないのね。
病院の通用口から調剤室へ向かう。
今日も、いつも通りの一日になる筈だった。