0483.惑わされぬ眼
「店長さんは自治区の権力者だから、ホントのことでもご本人の前で言っちゃダメなんですね? 余計なコト言ってすみませんでした」
アシーナがしおらしく言って頭を下げた途端、何かが落ちた。
窓を打つ激しい雨音に紛れ、床に落ちた音は聞こえない。クフシーンカは、少女の足下に目を凝らした。
……何かしら?
アシーナは顔を上げ、背筋を伸ばして司祭に向き直った。
「司祭様、私が夏祭の踊りの練習をしたいから出勤時間を少し遅らせて下さいってお願いしたら、店長さんは最初、許して下さらなかったんです。信仰より、お仕事の方が大事だからって、サロートカも店長さんと一緒になって、私をサボり呼ばわりして」
哀れっぽく苦境を訴えるその口から、形を成さぬ雑妖が飛び出し、胸元の辺りで消える。人々のギョッとした目が、アシーナの口許に集まった。
アシーナは自分がどれだけ信心深いか、どれだけ言葉を尽くして信仰の大切さを二人に説いたかを、慎み深い態度で滔々と捲し立てる。
司祭は、アシーナの言葉が途切れ、雑妖の排出が止むのを待って、祈りの言葉を唱えた。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
人々は、司祭に続いて祈りの言葉を呟いたが、アシーナの口だけが祈りの為に動かない。
「その者が、何者であるかだけで判断してはなりません。言葉の内容、行動の目的と内容を吟味し」
「司祭様、急に話が変わって、私ゃ難しくてわかりませんわ」
作業を手伝っていた老婆が、恥ずかしそうに言った。
司祭は、申し訳なさそうに苦笑して言い直す。
「詐欺師に騙されない為の心構えですよ。その人の身分や肩書、外見や身形、声音や態度だけで判断してはいけません」
「人は見かけによりませんもんねぇ。それで?」
「その人が、何を言っているのか、何の為に何をしているのか、見かけや雰囲気ではなく、中身によく気を付けて下さい」
「中身、ねぇ……いっぱい喋られたら、どこに目を付けて気を付けりゃいいやら全然」
老婆がお手上げだとばかりに首を振る。
「実際の出来事……事実を注意深く見て、言葉や行動と照らし合わせて、そこに食い違いはないか、よく考えて判断しなければなりません」
「やっぱり難しいお話だったよ。それができりゃ、工場の出資金詐欺になんて遭う人は、誰もいなかったろうにねぇ」
「そうですね。難しいですが、雰囲気に呑まれないように、肩書に目を眩まされないように、一人一人が気を付けることが大切なのです」
司祭は老婆に微笑んで、アシーナとクフシーンカ、呑み屋の亭主と菓子屋の夫婦を順に見る。
礼拝堂に集まった一人一人の眼に、司祭の言葉を正しく理解できたか、問い掛けるような視線を向けた。
アシーナは司祭が味方になったと思ったのか、その面に微かな優越感を滲ませ、人々を見回す。
……アシーナの言動の矛盾に気付かないなら、その人はそれまでの人ね。
報酬の袋詰め作業の班長が、嫌悪感も露わにアシーナに言葉を叩きつけた。
「口から雑妖吐いてる小娘の言うことなんか、誰が信じるもんかね」
「そんな……そんな言い方って、酷い……さっき司祭様がおっしゃったじゃありませんか。肩書に惑わされちゃダメだって……私が店長さんにされた困ったコト、そんなに言っちゃダメなんですか?」
アシーナは、あたかも、不都合な事実の指摘を咎められたかのような口ぶりで、正しいことを信じてもらえない悲しみを装う。だが、その口からは先程より濃い雑妖が吐き出され、膝の辺りまで落ちて消えた。
「ここが教会でなかったら、お前さん、雑妖に埋もれて見えねぇとこだ。てめぇの口から出たモンが視えねぇってのか?」
元呑み屋の亭主が、汚物を見る目を金髪の少女に向けた。他の人々もぎこちなく頷いて眉を顰める。
「ムルティフローラの王族の眼には、アシーナ自身が化け物に視えるこったろうよ」
「魔法使いの邪眼を肯定するんですか?」
アシーナが、口を挟んだ男性にあり得ないものを見る目を向ける。
司祭が落ち着いた声で言った。
「先週の礼拝で、聖典のその箇所の説明をしたばかりですよ? 礼拝に参加しただけで、内容を聞いていなかったのですか?」
「お話が難しかったので……私、バカだから」
アシーナが、先程の老婆の真似をして言い繕う。
司祭はそれについては何も言わず、ただ、先週読み聞かせた聖典の内容を繰り返した。
「聖典には、大きな過ちに気付いた人々は魔力の有無に関係なく、その持てる力の全てを合わせて団結し、三界の魔物と戦ったとあります。そして、最後の一体を北の地に封印し、監視するのがムルティフローラ人だと記されています」
「でも、魔術は悪しき業だから」
「聖典には、三界の魔物や、雑妖になる以前の穢れを視認できるのが、ムルティフローラ王家の人々で、その視力は魔術によるものではなく、生まれつきのものだと記されています。彼らは、三界の魔物の封印を維持し、過去の人類の過ちを清算しているのです」
「でも、魔法使いですよね?」
「聖者キルクルス・ラクテウス様は、三界の魔物による惨禍を二度と繰り返さぬよう、魔術を悪しき業だと判断なさいましたが、力ある民……魔力を持つ人間そのものを悪しき存在だとはおっしゃっていません」
聖典にあまり詳しくない人々が、興味深そうに司祭の話に耳を傾ける。
アシーナ唯一人が、聖典の解説に異論を唱える言葉と共に雑妖を吐き出した。
「アシーナ! 外国の王族を貶す言葉が、言った端から雑妖ンなってんぞ。自分の姿が視えねぇのか?」
「アシーナさんよぉ、口から汚らしい雑妖吐き散らかしながら、聖典に書かれてるコト否定して司祭様に逆らって、お前さんこそが、悪しき存在じゃねぇのか?」
元呑み屋の亭主とさっき口を挟んだ男性が、アシーナを指差して早口に言った。
「でも、魔法使いは半世紀の内乱中、散々酷いコトした悪者だってみんな言ってますよ? 私は力なき民だし、何にも悪いことなんてしてないのに」
「半世紀の内乱にムルティフローラの王族は関係ないだろ」
「あんな遠い国……ねぇ?」
おばさんたちが呆れて顔を見合わせる。
「アーテルが戦争起こしたのも、この自治区のみんなをネモラリスの魔法使いから助ける為じゃないですか」
アシーナは同調者を求めて言葉を重ねるが、それと同時に飛び出しては消える雑妖のせいで、味方になる者は一人もなかった。
痩せた男性が、不快感も露わに反論する。
「うちの爺さんは内乱中、仲のいい魔法使いに助けられて、ネーニア島まで逃がしてもらったって言ってたぞ。魔法使いも悪人ばっかりってもんじゃない。それを忘れるなって死ぬまで言ってた」
「あぁ、さっき司祭様がおっしゃった、その人が何者でどんな肩書でも、それだけで判断しちゃなんねぇっての、そのまんまだな」
菓子屋の主人がこくこく頷いたが、アシーナは尚も言い募った。
「でも、みんなが魔法使いは悪者だって言ってるし……私は力なき民だから魔法なんて使えないし」
酷い火傷で片膝が曲がらなくなった若者が、いい加減にしてくれとばかりに声を上げる。
「みんなって、誰だよ?」
「ここに居ない人たちよ」
「じゃあ、この雨で山から戻ったみんなに聞いてみるけど、いいんだな?」
「口から雑妖吐き散らかしてる売女の話をまともに聞く奴が居たら、そいつこそが性根の腐りきったアシーナの同類だ」
元呑み屋の亭主が、火傷で拘縮した左手全体を使ってアシーナを指示した。
☆工場の出資金詐欺になんて遭う人……「0026.三十年の不満」参照




