0480.最終日の豪雨
昼を少し過ぎた頃、急に空が暗くなった。
クフシーンカは強い風に目を細め、天を仰いだ。さっきまで白かった雲の底が、今にも降りだしそうな不穏な色に染まる。道から離れた斜面で、雑妖が活発に動き始めた。
クブルム山脈を通る街道の発掘作業は、今日が最終日だが、雨が降る前に撤収した方がいいだろう。
「雨が降ると厄介よ。早く片付けましょう。報酬は丸一日分出します」
クフシーンカの一言で、撤収作業が始まった。伝言が順繰りに伝わり、人々の動きは早い。山から運び降ろされた枝や丸木、腐葉土の詰まった袋が次々と軽トラに積み込まれた。
「雨が降ってきたら、これを被って。教会に報酬を取りに来てちょうだい」
人々が、すっかりキレイになった石畳の道を下って来た。クフシーンカと針子のサロートカ、菓子屋の夫婦が、裾野の広場で未使用のゴミ袋を配って回る。
最後の一人が裾野の広場まで戻った途端、大粒の雨が降り出した。
山から降りた人々は、ゴミ袋で雨を防いで石畳の道を駆け降りる。濡れるのを諦め、激しい雨をシャワー代わりに土で汚れた手足を洗い流しながらのんびり歩く者もいた。
地に叩きつける激しい雨に稲光と雷鳴が混じり、足下を濁流が駆け降りる。
急激に気温が下がり、クフシーンカは肌寒さに思わず肩を抱いた。菓子屋の亭主が、取り残された者がないことを確認し、ワゴン車に乗り込む。
窓を叩く雨音が恐ろしい程だ。ワイパーが追い付かず、フロントガラスが滝になる。
……家に着替えはあるし、タオルもあるから、以前に比べればマシだけど、最後にこんなことになるなんてねぇ。
クフシーンカは沈んだ目で前を向いた。みんな同じ気持ちなのか、車内には雨音だけが響く。舗装道路の水溜りを跳ねながら、リストヴァー自治区の教会へ先回りした。菓子屋の主人は慎重に運転し、ワゴン車を教会の敷地へ入れる。
四人はゴミ袋をレインコート代わりに礼拝堂へ駆け込んだ。司祭と住人たちが、報酬を準備する手を止めて口々に四人を労った。
「お疲れ様です。大変でしたね」
「いやぁ、司祭様、俺らは車だからいいけどよ。みんなは歩きだから」
「雨避けにゴミ袋を渡しましたけど、これだけ酷いと、ずぶ濡れでしょうね」
菓子屋の夫婦が溜め息混じりに苦笑する。
火傷で左手の指が動かなくなった男性が、窓の外を見て笑った。
「いやいや、却って身体洗えていいんじゃねぇか?」
「今はちゃんとした道と溝があって、家もしっかりしてるから」
「前みたいに雨が降るたんびに臭くて汚くてドロドロなんてコトありませんし」
「ちょっと雨に濡れるくらい……ねぇ?」
女性たちも、報酬として渡す食糧をビニール袋に小分けする手を休めず、口々に言う。
大火の前は本当に酷いものだった。
バラック小屋は雨漏りがして、木箱やコンクリートブロックで床を嵩上げしない家は、少し雨が降っただけで、床の上まで泥が流れ込む。
小屋の隙間を縫う道は未舗装でぬかるみ、公衆トイレから遠い地区では悪臭が酷く不潔で、雨の後は大勢が病気になった。
溝がない為、排水に時間が掛かり、雑妖も蔓延る。
以前居た針子のアミエーラは、雨の日から数日は、団地地区にある店に泊めたものだ。
本人がどうしてもと固辞するので、客間のベッドではなく、仕事場の長椅子に毛布を出して休ませた。当時はそれでも、アミエーラの自宅で過ごすより、ずっとよかったのだ。
「店長さんたち、お疲れでしょうから、休んでて下さいな」
「ここは私らでできますから」
「あぁ、そうだ、店長さん。さっきアシーナちゃんが来ましたよ」
話し掛けられ、クフシーンカは物思いに沈みかけた意識を引き戻された。
「アシーナが? 何しに?」
「えっ? 店長さんが、ウィオラちゃんの看病させに寄越したんじゃないんですか?」
「いいえ? いつ来たの?」
クフシーンカが聞き返すと、女性は気マズそうに口籠もり、老いた尼僧が代わりに答えた。
「つい先程、雨が降る前に来て、まだ居ますよ。傘も何も持っていませんから、店長さんたちと合流できてよかったですね」
「あのコ、仕事サボって……ここにも毎日、来てたの?」
「いえ、今日が初めてですよ。朝はお祭りの練習で毎日、来ますけど」
何をしに来たのかと訝りながら、クフシーンカとサロートカ、尼僧と菓子屋の妻が奥へ向かった。
閉じた扉から廊下に怒鳴り声が漏れる。四人は顔を見合わせ、足音を殺してそっと扉に近付いた。
「あんたばっかりズルいじゃないッ! 何とか言いなさいよッ!」
アシーナだ。ウィオラの声は聞こえない。サロートカが凍りつく。察した尼僧が手前の自室に針子の少女を招き入れた。
「売女のクセにみんなから大事にされて、こんなイイ物いっぱいもらって、私にも分けてくれたっていいじゃないッ!」
クフシーンカは菓子屋の妻と頷き合い、一気に扉を開けた。
「アシーナ。頼んでおいた仕事はできたの?」
扉を開ける音は雨音に紛れ、気付かなかったらしい。
クフシーンカが静かに声を掛けると、振り向いたアシーナはその姿勢で固まった。左手にはいっぱいに膨らんだ布袋、右手には花柄のワンピースが鷲掴みだ。
ウィオラはベッドに身を起こし、涙で頬を濡らす。
「どう言うことかしら、これは?」
「縫製の参考にちょっと貸してもらおうと思ったんです」
アシーナは、こちらに向き直って背筋を伸ばし、堂々と言い放って媚びた笑みを浮かべた。その背後で、青褪めたウィオラが声も出せずに首を横に振る。
「アシーナ、その袋の中身は?」
「預かって来たお見舞いです」
「そうなの? 私からもお礼を言いたいから、お名前を教えてちょうだい」
「大したものじゃありませんし、そんな、お礼なんて」
クフシーンカの目を見て胸を張り、澱みなく答える姿は、何も知らなければ誠実に見える。
……きっとこの態度にみんな騙されるのね。
「アシーナ。お見舞いとその服を置いて、礼拝堂に来てちょうだい。この雨で早めに作業を切り上げたから、報酬の準備に手が足りないの」
「はぁい。わかりましたぁ」
可愛らしい笑顔で応じ、怯えるウィオラに荷物を押しつけた。
菓子屋の妻がアシーナと連れ立って礼拝堂へ向かう。
廊下に出たクフシーンカは、尼僧たちに目顔で合図し、ウィオラの部屋へ行くよう促して、二人に続いた。




