0049.今後と今夜は
アウェッラーナは、陸の民の少年の後ろ姿を見送り、【操水】の術で水道水を起ち上げた。小型の浴槽一杯分くらい汲んで、鉄鋼公園へ戻る。
テロリストを発見したと言う少年は、必死に警察署まで駆けて来たのだろう。息切れしてすっかり怯えていた。その友達の安否も不明だ。
今、この街では、あちこちで同じことが起こっている。
少年は到着したパトカーに乗せられ、どこかへ行った。
……道案内……あの子、戦闘に巻き込まれなければいいんだけど。
アウェッラーナは公園に戻ると、汗や埃、煤で汚れた人々を洗った。
術で人肌よりやや熱めに加熱した湯で汚れを洗い流す。洗われた人々は、晴れ晴れとした顔で、湖の民の薬師に礼を言った。
冬の日は早い。
傾き始めた日に風が冷える。
「あ、もしかして、パン屋さんですか?」
洗っている服に赤い椿の刺繍を見つけ、アウェッラーナは年配の男性に声を掛けた。男性が頷く。
「パン、ご馳走さまでした。私、薬師です」
「あぁ、いえいえ、あんな潰れたパンですみません」
「いえ、美味しかったですよ」
「こちらこそ、助かりましたから。あんなものしかお礼できなくて……」
「いえいえ、お気遣いなく」
「お蔭様で娘たちと再会できました。女房と息子がまだなんで、明日の今頃までは、ここで待とうと思ってます。薬師さんは、ずっと病院で?」
病院職員も、力なき民と女性は次々と避難させられた。
今も残るのは、呪医と年配の男性薬師と、事務長の三人だけだ。彼らは昨夜、一台だけ残した病院の車で休んだと言っていた。
今後は【巣懸ける懸巣】学派の建築技師と資材の手配が住み次第、ジェリェーゾ署に移るらしい。
地区の前線基地として、ここを死守する。
「あなたは民間人だ。国から直接、要請がない限り、無理してここに留まる必要はない」
市民病院の事務長はそう言ってくれたが、アウェッラーナは迷っていた。
「いえ、私、他の病院の者なんです。これから……どうしようかなって……」
「なら、我々と一緒に避難しませんか? 魔法は使えませんが、昼は水汲みや薪拾い、夜も焚火番や見張りくらいはできますよ」
「うーん……明日の……朝まで考えさせてもらってもいいですか?」
「勿論、いいですよ。薬師さんにもご都合がおありでしょう」
小学生の娘は父のエプロン、中学生の娘は父の左手を握り、黙ってその遣り取りを見守る。
いつまでもこんな所でぐずぐずして居られない。
魔法使いが居なくなれば、魔物に食べられてしまうかもしれない。
それは、わかっている。でも、母と兄を見捨てて逃げるのは辛い。
身を切られるような思いが籠められた眼差しから目を逸らし、アウェッラーナは【跳躍】した。
漁港の設備は、粗方破壊されていた。船は一隻もない。
かなり威力のある爆弾を使ったのか、魚の加工場が吹き飛び、瓦礫が散らばる。周辺の住宅地は完全に焼失し、真っ黒な焼け跡からは、まだ微かに煙が漂う。
南側の工場地帯も沈黙していた。
いつもなら絶えず煙を吐く煙突が、ただそこに突っ立つ。
北西方向も見渡す限りの焼け野原だ。道路にも瓦礫が散乱し、一般車両のタイヤでは通行できそうもない。
……誰も火を消さなかったの? どうして?
戦闘機の編隊で面的に爆撃される空襲ではなく、地上からの攻撃だけでこれだけの事態になったことが、不思議だ。
焼け跡では、ネモラリス軍の兵士と警察官が、警戒とテロリストや負傷者の捜索に当たる。
アウェッラーナが途方に暮れていると、銃を持った正規兵が小走りに近付いた。
「ここは今、立入禁止です。速やかに避難して下さい」
アウェッラーナが湖の民だからか、兵士の口調は丁寧だ。
他に民間人の姿はない。
「あの……身内が漁師で、昨日は漁に出ていた筈なんですけど……」
「あぁ、それなら、無事な漁船はマスリーナ市の港に避難していますよ」
アウェッラーナは明るい顔で礼を言い、【跳躍】した。
鉄鋼公園に逃れた市民が、険しい顔で今夜の準備をする。
昨夜はグラウンドと児童公園が人で埋め尽くされたが、今は百人足らずにまで減っていた。
グラウンドの中心には、石やコンクリートブロックを組んだ簡易式のかまどがある。かまどを中心に薪の山と荷物や毛布が置かれ、周囲をロープが囲む。
アウェッラーナは、しゃがんでロープに手を触れた。
魔力が籠っていない。ただのロープだ。
……まだ【簡易結界】は掛けてないのね。私一人じゃ、こんな広いの無理だし、他に魔法使いの人は?
魔装警官は、テロリストの捜索や警戒で出払った。
市民病院の呪医と薬師と事務長に手伝ってもらえればいいが、彼らは彼らの仕事で忙しい。それに、夜まで働いて、結界を張る余力が残るかわからない。
避難民も同じことを考えたのか、どこからか持って来た箒で、グラウンドをせっせと掃き清める。物理的に清潔にすれば、それだけでも雑妖は大幅に減る。力なき民であっても、身を守る為にできることはあった。
……魔法と比べれば、気休めにしかならないけど、何もしないより、ずっとマシだもんね。
準備が終わってから【操水】で、人々の身体とグラウンドを洗い清め、少しでも憑かれ難くする。
アウェッラーナは遊具に腰かけ、湖に目を遣った。
ラキュス湖が、午後の冬日に照らされて穏やかに輝く。いつもなら、昼網の漁船が行き交う湖面には、ひとつも船影がなかった。
……また、あんな時代になっちゃうのかな?
人生の半分近くが暗い内戦時代だった。
平和だと思ったこの三十年も、脆い土台の上に成り立っていたと知った。
リストヴァー自治区に住む陸の民――力なき民のキルクルス教徒を踏みつけにしていた。今、その抑圧のタガが外れたのだ。
明日の行動は決まったが、どうやって生きて行くか考えがまとまらず、何も決まらなかった。
職場がいつ再開されるか、全くわからない。だが、アウェッラーナは、生きてさえいれば、どこかで傷病者を助けられる。
明日になれば、朝と昼の二回、正式に設置された避難所へ向かうバスが来ると言う。昼がここに来る最終便で、その後は橋と道路が全面通行禁止になり、湖岸の三区は完全に閉鎖されると聞いた。
アウェッラーナは、昼の便でマスリーナ市へ向かうと決めた。
ここに居る人たちと共にバスで行くのがいいだろう。
アウェッラーナの一族はみんな、漁港の近くに住んでいた。職場もゼルノー市内で、他所へ行く用事がない。
この三十年、アウェッラーナは隣のマスリーナ市にも行ったことがなかった。他の親戚もそうだろう。
マスリーナ港で合流できれば、それでよし。
会えるまでは、避難所で食糧の配給を受けねばなるまい。
もし、会えない場合は……
アウェッラーナはそれ以上、考えるのをやめた。
今夜を生き延びられなければ、その先などない。
……どんなに考えても、なるようにしかならないのよ。




