0478.戦うしかない
……魔獣の種類は? そう言えば、朝からトラックの冷却とか、魚獲りとか、たくさん術を使って疲れてたから、ちょっと急に立っただけでこんな酷い立ち眩みを起こしたのね。
昨夜ロクに眠れなかった睡眠不足の影響も否定できない。視界は真っ白に塗り潰され、身体も言うことを聞かないが、思考はそれを補うようにフル回転する。
ゆっくり深呼吸して回復を待ちながら、不完全な聴覚に神経を集中した。
少し離れたところから、草を踏む音が聞こえた。
ぼんやり鈍る聴覚では、実際の距離は掴めない。
ソルニャーク隊長がアウェッラーナの前に出た。
……今の私じゃ、隊長さんを連れて跳ぶどころか、一人でもムリそうね。叫んで助けを呼ぶ? ダメね。かなり奥に入っちゃったから、声が届かないし、魔獣と戦える人が居ないのに呼んでも犠牲者を増やすだけよ。
魔獣の咆哮に息を呑み、思考が中断する。草を蹴って駆け寄る音にソルニャーク隊長の叫びが重なった。何かがぶつかる鈍い音に続いて、草を踏み荒らす乱れた足音が、少し離れた位置から聞こえる。
……走って逃げる?
追って来られたら、みんなが危ない。戦うしかないと結論し、手探りで袋の口を締める。少し手足の感覚が戻ってきた。視界を埋めた白がじわじわ消える。
アウェッラーナは大きく息を吸い、下腹に力を入れてゆっくり立ち上がった。森の緑が見える。
……パニセア・ユニ・フローラ様、私たちをお守り下さい。
ソルニャーク隊長の背中、その向こうに赤い角を生やした緑色の雄牛が居た。首から青黒い血を流し、荒い息を吐く。
普通の雄牛の倍近い巨体だが、蹄が地を掻く音は軽い。
……受肉したばかりで、割と弱い?
「跳べるか?」
「いえ、もうそんな大きな術は使えません」
火の雄牛から目を逸らさずに聞いたソルニャーク隊長の右に出て、剣の柄にそっと触れる。【魔力の水晶】が輝きを宿すのを見届け、アウェッラーナは【退魔】を唱えた。
「撓らう灼熱の御手以て、焼き祓え、祓い清めよ。大逵より来たる水の御手、洗い清めよ、祓い清めよ……」
場の穢れを祓う術だが、牽制にはなるだろう。心臓が早鐘を打つのを抑え、早口に詠唱を続ける。
「……太虚を往く風よ、日輪翳らす雲を薙ぎ、月を翳らす靄を祓え」
結びの言葉を唱えると、アウェッラーナを中心に光の波紋が広がり、森の薄闇が僅かに明るくなった。草の影から戦いを遠巻きに眺める雑妖の群が、木立の奥へ逃げてゆく。
火の雄牛が一歩退がった。ソルニャーク隊長も退がり、アウェッラーナも同じく距離を取る。
手負いの魔獣が頭を下げ、姿勢を低くする。二本の角が赤く輝き、その間に小さな火球が生まれた。
「後で癒してくれ」
ソルニャーク隊長が草地を蹴って突進し、雄牛の首に体当たりした。何かが弾ける音と同時に角の輝きが消え、火の雄牛が苦痛の声を上げながら首を激しく振る。
隊長が跳び退き、深々と突き立った短剣が、青黒い血の筋を引いて抜けた。
薬師アウェッラーナは木立の後ろに身を隠し、何か攻撃手段がないか考えながら見回す。
獣道に手頃な大きさの石が転がる。
ソルニャーク隊長は、雄牛の突きを巧みに躱しながら、森の奥へと誘導する。魔獣は、隊長の挑発に鼻息荒く角を振り立て、追い掛けた。
薬師アウェッラーナは、魔力を殆ど使い果たしてふらつく足で獣道へ出て、石を拾った。振り向くと、魔獣がこちらに背を向けて立ち止まり、再び頭を下げて角の間に魔力を収斂する。角の間に赤熱する光が輝いた。
アウェッラーナは、木立の間から力いっぱい石を投げた。緑色の背に当たり、雄牛が振り向く。アウェッラーナはしゃがんで身を隠した。薮の後ろで姿勢を低くし、足音を忍ばせて移動する。
細腕で投げた石くらいでは、魔獣にはかすり傷ひとつ付かなかった。それでも、注意を逸らし、集中を乱せただけでも上出来だ。
火の雄牛が、凄まじい咆哮を上げた。
息を止めてその場に蹲り、薮の隙間からそっと様子を窺う。
ソルニャーク隊長の攻撃が、今度は魔獣の肩に当たり、形成途中の火球が完全に消え去った。血飛沫が草地を濡らす。火の雄牛の蹄が青黒く染まった地を抉り、猛然とソルニャーク隊長に突進した。
隊長は、アウェッラーナとは反対側の木立に逃げ込んだが、火の雄牛は薮を踏み折り、勢いを殺さず突き進む。
へし折られた若木から放たれる芳香が、悲鳴のように森を漂った。
隊長は木々の間をすり抜け、薮を飛び越えて魔獣から逃れるが、火の雄牛は執拗に追い、彼我の距離が徐々に縮まる。
……どうしよう?
攻撃どころか逃げることもできず、見守るしかないアウェッラーナの耳に微かな声が聞こえた。気のせいかと思ったが、次第に近付いてくる。
「……い、おーい! 隊長ーッ!」
少年兵モーフの声だ。
森に谺し、どこから来るか判然としない。魔獣に気付かれると危ないが、今、制止の声を掛けるのは、アウェッラーナも危険だ。
……どうすればいいの?
火の雄牛はソルニャーク隊長を追い、アウェッラーナから遠ざかってゆく。
「隊長ー! 薬師のねーちゃーん!」
「来ちゃダメー!」
アウェッラーナは思い切って声を出した。
「魔獣が居るのー!」
「ねーちゃん、どこだー! 今、行くーッ!」
完全に逆効果だ。
アウェッラーナは薮の陰から森の奥を窺った。
火の雄牛がこちらへ駆け戻り、ソルニャーク隊長が、踏み折られた薮を辿って追う。二人が来る時に通った獣道からは、別の足音が近付いてくる。
武器は、隊長の短剣しかない。
丸腰のモーフが魔獣と鉢合わせすれば、大変なことになる。
アウェッラーナは【操水】の術で、足下の土が含んだ水を掻き集めた。魔獣にどこまで通用するかわからないが、市民病院で患者がテロリストと戦ったように、水で鼻と口を塞ごうと思う。
「ねーちゃん、無事かッ?」
アウェッラーナは諦めて、水塊を連れて獣道に出た。
☆市民病院で患者がテロリストと戦った……「0015.形勢逆転の時」参照




