0476.ふたつの不安
レノは兄として、店長として、なるべくなんでもないように振る舞った。
何かしないと、暗い考えに沈んで二度と浮かび上がれなくなりそうだ。
薬師アウェッラーナに教えてもらったばかりのぬるぬるする薬草を手当たり次第に採り、すっかり遅くなった朝食の用意をする。
さっき、荷台でティスとアマナが【癒しの風】を歌ってくれた。身体の表層の傷をほんの少し癒す呪歌だし、二人は【魔力の水晶】を持たずに歌ったから、何の効果もない。
それでも、二人の気持ちが嬉しかった。
身体の傷はみんな、呪医セプテントリオーが癒してくれたが、心の傷は香草茶で痛みを抑えただけだ。
途中からピナとレノも加わり、声を揃えて呪歌【癒しの風】を繰り返し歌った。ピナは癒し手の資格を失ってはいない。
……でも、また……守れなかった。
何もできなかった無力感が鉛となってレノに圧し掛かる。
どうやって助かったかさえ、わからなかった。ゲリラの返り討にあったレノが意識を取り戻した時、傍に居たのはピナとティスとアマナ、それに呪医セプテントリオーだ。
きっと、ファーキルが助けを呼びに行ってくれたのだろう。
……後でお礼言わなきゃ。
魚が焼き上がり、朝食の準備が整った。
ラクリマリス人の少年ファーキルの姿を捜す。トラックの傍で、ソルニャーク隊長とタブレット端末を見詰め、何やら険しい顔で話し込んでいた。
久し振りの焼魚だが、みんな浮かない顔だ。
何の表情も、一言のお喋りもなく、ただ空腹を満たす為だけに魚を噛んで飲み下す。少年兵モーフでさえ、アクイロー基地で何があったのか、あんなに焼魚が好きだったのに土を食うような顔で黙々と腹に収める。
朝ごはんなんてものではない。ただの作業だ。
薬師アウェッラーナが、みんなに香草茶を淹れる。
いつもより濃い色と香りにレノは思わず、荷台を見た。たくさん採り貯めたとは言え、こんな調子で消費したのでは、一カ月も経たずになくなってしまう。
街に入れば、そう簡単に素材が手に入らないだろう。
……使いきる前に、ピナたちが元気になってればいいんだけど……
レノは食事の片付けを終えると、袋を片手に道路脇の森の縁へ向かった。
「お兄ちゃん、待って! 私も!」
ピナとティスが、慌てて袋を掴んでついて来た。
二人には、今からファーキルと話すことを聞かせたくなかったが、レノの傍から離れたくない不安も痛い程よくわかる。二人に何も言わず、したいようにさせることにした。
……よく考えたら、ファーキル君だって、あんな現場に居合わせて怖かったろうし、今は傷抉るようなコト、言わない方がいいかもな。
森の縁は、拠点周辺と同じ種類の植物が繁茂する。
香草はレノの膝くらいにまで伸び、小さな白い花がちょっとした花畑を作っていた。蜜蜂が群落を飛び交い、忙しなく働く。パン屋の兄妹が近付くと、蝶がひらりと逃げた。
ティスが香草の花畑に顔を近付け、パッと笑顔を咲かせて振り返る。
「すっごいイイ匂い!」
レノとピナも、ティスを挟んでしゃがみ、小さな花畑に顔を近付けた。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
「ホント、いい香り」
ピナの微笑みにレノも頬が緩む。心配させない為に繕った仮面ではない。自然な笑顔だ。
……花の香にも薬効があるんだな。
今は、それでもいい。
いつか本当に傷が癒えて心から笑える日が来るまで、これ以上、傷が深くなって心が膿み腐らないように、香草の助けを借りられる間はそうした方がいい、とレノは思った。
「これから種子ができるから、採るのは半分だけにしような」
「うん」
甘い香りに包まれ、心穏やかに香草を摘む。
少し離れた場所には傷薬になる薬草の群落があった。ロークと少年兵モーフ、メドヴェージがせっせと摘み、その傍らではファーキルが、木に巻き付いた蔓草の根元を鋏で切って採る。
薬草には虫綿がたくさんついて、緑と白のコントラストが目に鮮やかだ。
ファーキルが不意に手を止め、肩に掛けた鞄から黒いタブレット端末を取り出した。画面に向けた顔からみるみる緊張が解け、明るい声で叫ぶ。
「返事来ました! クロエーニィエさんのお店で、ナンバーと車用の大きいシール、手配できたそうです!」
「ホントかッ? お代は幾らだ?」
運転手メドヴェージがファーキルに駆け寄り、少年兵モーフも薬草を摘む手を止めて二人を見詰める。
「それが……容れ物持って行くから、傷薬を作ってねって」
「何だ? 数とか、何リットルだとか、分量書いてねぇぞ? まさか、魔法でドラム缶持って来ンじゃねぇだろな?」
画面を覗いたメドヴェージが眉を顰める。ファーキルがレノに手を振った。
「店長さーん、油って、どのくらいありますー?」
「えーっと、使いかけが一瓶だから、そんなにたくさんないよ」
「じゃ、油も持って来てもらいます」
ファーキルがすぐに画面を撫で、返事を送る。
レノは立ち上がって薬師アウェッラーナを捜した。トラックの傍でクルィーロとアマナ、針子のアミエーラがぬるぬるする薬草を摘むが、湖の民の姿はない。湖面に目を凝らしたが、漁に出たのでもなかった。
トラックの影か荷台に居るのかもしれないが、胸にじわりと不安が広がる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「ん? アウェッラーナさん、どこかなって」
ピナとの遣り取りが聞こえたのか、少年兵モーフが森の奥を指差した。
「隊長と一緒に森ん中で素材採ってるっスよ」
「森の中? 危なくないかな?」
レノは先日、クルィーロとメドヴェージが魔獣に襲われたのを思い出し、モーフが指差す方を見た。木々に遮られ、奥までは見通せない。
少年兵モーフは薬草摘みを再開して、何でもないことのように言う。
「隊長が剣持ってったし、大丈夫なんじゃないんスか?」
「あ、そうなんだ。じゃあ、大丈夫かな」
「隊長さん、強いもんね」
レノに続いて言い、ティスが無邪気に笑った。
時折、森の奥を気にしながら素材採取を続け、大型のゴミ袋が香草や薬草などでいっぱいになった。みんながぞろぞろトラックに戻る。
いつからそこに居たのか、バス停のベンチに湖の民の女性が座っていた。
ファーキルがバス停に駆け寄る。
「フィアールカさん、有難うございます!」
「毎度ご利用、有難うございまーす」
緑髪の女性は小さく手を振ってにっこり笑った。
……あの人が、ファーキル君が言ってた運び屋のフィアールカさん?
二十代半ばくらいに見えるが、ファーキルが長命人種らしいと言っていたから、実際にはレノたちよりずっと年上だろう。
湖の民の運び屋フィアールカは、袋から荷物を出した。老婦人シルヴァが大量に持って来たのと同じ、蓋付きのプラ容器だ。
ベンチには、大きな布袋がみっつ座り、そのひとつから筒状に丸めた大きな物がはみ出し、植物油の業務用サイズ一缶とナンバープレートも顔を覗かせる。
「えっと、薬師さんは今、森の中で材料集めてます。傷薬の素材、これで」
ファーキルが、薬草をぎゅうぎゅうに詰めた大型のゴミ袋をベンチの脇に置く。運び屋が森に目を向け、眉根を寄せた。
「この森、魔獣居るんだけど?」
「戦える人が魔法の剣持って一緒に行ってくれたんで、多分、大丈夫」
フィアールカが険しい顔で立ち上がった。
「いつから?」
「えっ?」
「メシ食ってすぐくらい」
少年兵モーフが代わりに答えた。今はもうすっかり影が短い。
レノとピナが同時にレノの腕時計に目を遣る。十一時四十分。遅くなった朝食から一時間以上経つ。
「土地勘もないのに、そんな奥まで行く?」
「えっ……いえ」
「そっちの坊や、どの道通ったかわかる?」
「そっちの獣道っス」
「ちょっと見に行って来るわ」
「俺も行くっス」
少年兵モーフは荷物を放り出し、フィアールカの前を走って行った。取り残されたファーキルが呆然と二人の背中を見送る。
ピナとティスが、レノにしがみついた。レノはピナの背中を軽く叩き、ティスの頭を撫でて落ち着かせる。
「俺らは薬草の下拵えして待とうや。なっ」
メドヴェージに促され、森に不安な目を向けていたみんなは渋々、港の跡地まで戻って作業に取り掛かった。
☆癒し手の資格……「0108.癒し手の資格」参照
☆クルィーロとメドヴェージが魔獣に襲われた……「0444.森に舞う魔獣」参照




