0473.思い知る無力
メドヴェージが、久し振りにトラックのエンジンを掛ける。
さっき葬儀屋アゴーニが冷やしてくれたお陰で、夏の日差しに炙られたダッシュボードは冷えた。ファーキルはタブレット端末を握って前を向く。
車体がゆっくり旋回し、森に隠された別荘の正門と向き合う。門外には木々が密生し、道はなかった。
メドヴェージは全く躊躇せず、アクセルを踏んだ。
木立が何の抵抗もなく、フロントガラスを突き抜ける。草熱れを含む緑の風が、開け放たれた窓から吹き込んだ。
移動販売店のトラックが、幻の森をまっすぐ突き進む。
ファーキルは一刻も早く、あの恐ろしい出来事の現場から離れたかった。
昨日の夕方、呪符職人が来て「アーテル軍が動いたせいで、作戦が前倒しになった」とだけ言って、すぐ【跳躍】でネーニア島の拠点へ戻った。
彼の言葉通り、ソルニャーク隊長と少年兵モーフ、高校生のロークは夜になっても戻らない。ギリギリまで待って、寝室の扉に【鍵】を掛けた。
みんな不安で寝付けない夜を過ごし、やっと朝を迎えたのだ。
ファーキルは今朝、工員の妹アマナと一緒にパン屋の三人が朝食の用意をするのを手伝った。
レノ店長がパン生地を千切って丸める間、食堂へ食器を並べに行く。スープはいつも、パン焼き窯に火を入れてから作るので、手つかずだ。そこへ、武闘派ゲリラの一人が入ってきた。
戦闘の殺気を漲らせたままの目が、ピナティフィダを見た瞬間、別種の不吉な光を宿す。中年男は下卑た笑みを浮かべ、不穏な気配に怯える少女に近付いた。
小学生の女の子二人は、ファーキルと一緒に大テーブルの台所側、ピナティフィダ一人が反対側に居る。
ファーキルは、足が竦んで全く動けなかった。
「よぉ、嬢ちゃん、俺ぁさっき、アーテルの基地ブッ潰してきたんだ。これで当分、空襲がなくなるぞ」
誰もゲリラに言葉を返さない。ピナティフィダが一歩下がった。
「仇も討ってやったぞ。俺にご褒美くんねぇかな?」
ゲリラが少女との距離を詰める。
ピナティフィダが顔を引き攣らせ、逃げようと背を向けた瞬間、ゲリラが飛び付いた。手にした皿が放り出されて砕ける。
「大丈夫か?」
台所から顔を出したレノ店長が凍りついた。
「何も処女いただこうってんじゃねぇんだ」
「お、お兄ちゃん」
「触るくらいイイだろ? なっ? 減るもんじゃなし」
ゲリラの手が、押し倒した少女のTシャツの裾を捲り上げる。
妹の悲鳴で、レノ店長が何か叫びながら駆け寄り、ゲリラの頭を蹴った。
ファーキルは、泣きだした小学生の女の子たちを台所へ押しやり、椅子を構えて扉のない戸口に立ち塞がった。
非力な中学生のファーキルでは、戦闘の訓練を受けた成人男性に勝てる気はしないが、誰かが助けに来てくれるまでの時間稼ぎ程度にはなりたかった。
ゲリラが、レノ店長の足を掴んで引き倒す。店長は受身が取れず、床に側頭部を叩きつけられて動かなくなった。武闘派ゲリラはニヤリと笑い、立ち上がってレノ店長の顔をめちゃくちゃに蹴りつける。
ピナティフィダが、ゲリラの足に縋りついてやめさせようとするが、店長の顔はあっと言う間に血塗れにされた。
気が済むまで店長を傷めつけた男が、足にしがみついた少女に粘っこい視線を向ける。
「待たせたな、嬢ちゃん。続きしようや」
ピナティフィダが息を呑み、ゲリラの足から手を離した。男は少女の肩を押さえて押し倒し、改めてTシャツの裾を首の下まで捲り上げた。
そこへ、少年兵モーフが無言で駆け寄り、倒れた椅子を掴んでゲリラの頭を強打したのだ。
「どけコラァああああぁあッ!」
少年兵モーフが戦って一旦は引き離しれたが、一瞬の隙を突いてピナティフィダを人質に取られた。
ファーキルは、椅子を握って震えていただけだ。
警備員オリョールが来てくれなければどうなったか。考えたくもない。【急降下する鷲】学派の魔法戦士は、当たり前のような顔でゲリラの片目を潰し、迷惑を掛けたから処分する、と言い放った。
あのゲリラは、もう生きてはいないだろう。
香草茶の効果で動揺を鎮められ、思考がはっきりしたせいで、自分の無力も冷静に突きつけられた。
さっき、すぐソルニャーク隊長を呼びに行けたなら、どうなっただろう。
助けを求めることさえできなかった。
知識も、ネットの借物や教科書の受け売りばかりで、ファーキル自身が経験や観察で得たものは少ない。
……何も、できなかった。
幻の木々が後方に去り、森に囲まれた広場に出た。食べられる野草や薬草、細工物の素材にする蔓草は採り尽くされ、使い途のない草だけが残る。
メドヴェージが慎重にハンドルを回し、車体をアスファルトの道路へ繋がる林道に向けた。
「坊主、どっちに行きゃいいんだ?」
「右手側……南へ出れば近道ですけど、車道は島を一周してるんで、どっちからでも最終的に街へ出られますよ」
「そっか、了解っとくらぁ」
メドヴェージの明るい声に緊張が解け、罪悪感と嫌悪感、恐怖と憎悪が薄らぐ。
……あ、でも、街に着いてから、どこへ行けばいいんだ?
老婦人シルヴァが街での拠点に使う民家へは行けない。武闘派ゲリラやその支援者とは、もう二度と関わりたくなかった。
何かにつけ、頼ってばかりで気が引けるが、また、呪符屋で相談するしかないようだ。
……何もできない。何も知らない。でも、それじゃダメだ。
真実を伝える為に家を捨てたのだ。
もっと具体的な知恵と力が必要だと思い知らされた。
車窓に木々の緑が流れる。
未舗装の林道を抜けると、正面で女神の涙ラキュス湖が輝いていた。
☆幻の森……「0318.幻の森に突入」参照
☆アーテル軍が動いたせいで作戦が前倒し……「0449.アーテル陸軍」→「0455.正規軍の動き」~「0459.基地襲撃開始」参照
☆アーテルの基地ブッ潰してきた……「0460.魔獣と陽動隊」~「0462.兵舎の片付け」「0465.管制室の戦い」~「0467.死地へ赴く者」参照
☆少年兵モーフが戦って一旦は引き離してくれた……「0470.食堂での争い」参照
☆老婦人シルヴァが街での拠点に使う民家……「0324.助けを求める」「0325.情報を集める」「0331.返事を待つ間」「0387.星の標の声明」参照




