0045.美味しい焼魚
ミエーチ区は一見すると平穏だ。
よく見ると、明らかに人と車が減り、代わりに軍と警察の車両が行き交う。
アウェッラーナは念の為、アガート病院を覗いてみた。
閉ざされた扉に休業のお知らせが貼ってある。
電話に応答がなかったのは無人だったからだ。
職場はいつ再開されるかわからない。
何も知らされないまま放り出されてしまった。帰るよう言われた時の様子では、職員の安全を図る為、早々に病院を放棄すると決めたのだろう。内戦時代の対応を覚えている職員も多い。
薬師アウェッラーナは、運河に繋がる橋の袂へ歩いた。
欄干を乗り越え、水面へ飛び下りる。【操水】の術で、やわらかな地面へ降りたように着水する。
ゆらゆら揺れる足下で、魚の群が逃げた。
鞄から帆布製の買物袋を出し、水に浸す。
「水に親しき鳥の如く 我、漁る者ぞ
水に棲む魚、毒なき魚、水より満て 此の許に」
子供の頃に父から教わった【漁る伽藍鳥】学派の呪文を唱えると、逃げた魚が戻ってきた。
アウェッラーナが水に浸けた袋へ競い合って跳び込む。
帆布の買物袋は、瞬く間に魚でぎっしり満たされた。
袋の口を把手で括って引き揚げる。すっかり重くなった袋を手に【跳躍】した。
鉄鋼公園の遊具エリアに入り、声を掛ける。
「魚、獲ってきたんで、焼くの手伝ってくださーい」
薪の束やアルミホイルを持った人が集まって来る。
大人と子供、合わせて四十人近く。半数ほどが中学生ら、子供だ。
「男の子たち、石を集めて来て頂戴。女の子たちはその間、お魚を包んで」
陸の民の中年女性が指示を出し、自らもテキパキ手を動かして、〆たばかりの魚をホイルで包む。
男性たちは薪を組み、昨夜の残り火を移して焚火を準備する。
魚は三種類、大人用サンダル程の大きさのものが、全部で二十三匹獲れていた。
「また、すぐ獲りに行きますから、一人一匹でお願いします。警察の人も、ごはん食べてないそうなので……」
「あんたが獲ってきてくれた魚だ。あんたの好きに分けてくれりゃいい」
アウェッラーナが遠慮がちに申し出ると、調理服の男性が笑って応えた。他の面々もそれに頷く。
……いい人たちばかりでよかった。
ホッと胸を撫で下ろし、再び運河へ【跳躍】する。
公園と運河を三往復して、アウェッラーナも調理を手伝った。焚火の周りに石を並べ、その上にホイルで包んだ魚を置く。
香ばしい匂いが漂い、あちこちで腹の鳴る音が聞こえた。
「お父さん、お魚もらえてよかったね」
小学生の一人が、調理服の男性と手を繋いで言った。父子は無事に再会できたようだ。
「おなか空いたでしょうから、子供たちから先に食べさせてあげて下さい」
それにも、異議は出なかった。
先に食糧の配給を受けられたことと、生の魚が充分にあるからだろう。
第一陣が焼け、次々と子供たちの手へ渡る。
手袋やマフラー、ハンカチ越しに受け取り、思い思いの場所に腰を降ろす。
温かい食事に、場の空気が緩んだ。
全員に行き渡る頃、早い子はもう食べ終えていた。物欲しそうに見るが、流石に口に出しては言わない。
アウェッラーナは申し訳ないとは思いつつ、焼魚の包みを買物袋に入れ、警察署へ向かった。
護送車の見張りが交代している。
湖の民の薬師は一匹を渡して恐る恐る、罪人にも与えたいと申し出た。
警官は渋い顔をしたが、運転席で休憩する同僚に声を掛け、小窓から人数分を投げ入れてくれた。
アウェッラーナは何度も礼を言い、運転席の警官にも焼魚を手渡すと、他の人々にも配りに行った。
「食い物だ」
警官のだるそうな声に続いて、銀色の何かが投げ込まれた。
運転席と助手席の間の小窓は、それ以上の説明なしで、ぴしゃりと閉められた。
鉄格子の隙間から投げ入れられた物が、今まで嗅いだことのない香ばしい匂いを放つ。
近くの義勇兵が立ち上がって拾い集めた。
「まだあったけぇ。丁度、人数分あるぞ」
「これ、ホントに食い物なのか?」
「毒が入ってんじゃねぇだろうな」
大人たちは囁きながらも、一人一包みずつ順繰りに手渡した。
全員に行き渡るのを見届け、ソルニャーク隊長が口を開く。
「食べなければ餓えて死ぬ。食べて毒でも死ぬ。ならば、魚の味を知ってから死ぬのも一興だろう」
それだけ言って、銀色の包みを開いた。
匂いが更に強くなる。
香ばしさの中に少し生臭さがある。食欲をそそる匂いだ。
少年兵モーフが見守る中、ソルニャーク隊長は左の手袋を外した。
「魚には骨が多い。口や喉に刺さらぬよう、気を付けて食べるんだ」
少年兵は「サカナ」と言う物を生まれて初めて見た。
今まで見た他の何者にも似ていない。
蛇のような鱗に包まれた細長い体は、靴底くらいの大きさと形だ。靴底より少し分厚い体は、こんがり焼けている。
「骨がある」と言うからには、動物の一種なのだろう。
目らしきものは確認できたが、鼻と耳はなさそうだ。
毛も手足もない。手足がある筈の位置には、何だかよくわからない薄い膜があった。
隊長は、左手の親指と人差し指でその身をつまんで毟り取った。鱗ごと取れた身は白く、傷口から湯気が立つ。それを何の躊躇もなく口に入れた。
「川魚だな。脂が乗っていて旨いぞ」
隊長は一口目を飲み下すと、何か恐ろしい物でも見るような目を向ける少年兵に、笑顔を向けた。
少年兵モーフは、手袋を外し、見様見真似で包みを開いた。
魚から浸み出した油が、底に溜まっている。
零さないよう、包みの形を整え、人肌よりやや温かい身を指でつまんだ。思い切って毟ると、白身はあっさり取れた。
大人たちの様子を窺う。
魚に直接かぶりつく兵も居た。
少年兵は、震える指を口に入れた。
全く知らない味が、口いっぱいに広がった。
あふれる程、油があるのに瑞々しくあっさりしている。ほのかな生臭さと甘み、少し焦げた皮の香ばしさ。様々な味が複雑に絡み合い、何とも言えない気持ちになった。
……これ、毒だったとしてもわかんねーな。
僅かな白身を奥歯で噛み締める。
脂がじゅわりと浸み出し、更に味が強くなる。湧いて来た唾と共に口の隅々まで行き渡った。
舌の上で白身の感触を確める。
いつまでも口に入れていたい気もするが、それより腹が鳴って仕方がないので、思い切って飲み下した。
「それが、旨いと言う味だ」
隊長の言葉に声もなく頷き、夢中で魚を頬張る。
分厚い身は瞬く間になくなり、骨が露わになった。
背骨は他の動物と似ている。その左右に、肋骨から丸みを取ったような櫛型の骨が、端から端まで続く。
少年兵モーフは、魚の身体の仕組みに考えを至らせる余裕はなく、無心でその肉を口へ運んだ。
「骨に気を付けろ。刺さると厄介だ。先に汁を飲んでから身をひっくり返せば食べやすい」
隊長に言われるまま、汁をすすり、裏返し、身を毟る。
他の隊員がそうするので、少年兵も魚の頭をガリガリ齧り、苦い内臓と共にじっくり噛み締め、飲み込んだ。
後には骨と尻尾しか残らないが、名残惜しく、骨も味がしなくなるまでしゃぶった。
☆電話に応答がなかった……「0032.束の間の休息」参照
☆帰るよう言われた時の様子……「0006.上がる火の手」「0007.陸の民の後輩」参照




