0440.経済的な攻撃
ネモラリス共和国の駐アミトスチグマ王国大使から、アサコール党首とラクエウス議員に対する特段の働き掛けはなかった。
二人は「議員宿舎襲撃事件に巻き込まれた行方不明者」として、ネモラリス政府に公表されたが、姿を見せた後も全く何の音沙汰もない。
「向こうも、我々をどう扱っていいか、判断に困っているのでしょうね」
「大使館に呼ばれたところで、のこのこ出向かんのを見抜かれておるやも知れませんぞ」
目に痛い程白い壁の部屋で、ラクエウス議員が自嘲すると、アサコール議員も口許に笑みを浮かべた。
アミトスチグマの夏の都で、支援者宅に間借り中だ。
地元議員らには、その住所と電話番号を伝えてあり、既に何度も遣り取りを重ねた。その気になれば、大使は二人の国会議員に連絡できる筈だが、何故か沈黙を守る。
二人はタブレット端末でニュースを閲覧する。アーテル共和国の小麦相場の変動グラフだ。ここしばらくで乱高下を繰り返した。
「小麦や食品関連を中心に株式相場も荒れています。アーテル政府が筆頭株主の半国営企業の株もかなり含み損が出ていますし、戦費調達用に発行した国債を中心に、利下げや元本割れが出ています」
「為替はどうだね?」
「勿論、ガタガタですよ」
アサコール党首がタブレット端末を撫で、外国為替相場のグラフに切替える。魔法使いの国会議員は、アミトスチグマ王国に来て以来、この便利な情報機器の扱いにすっかり馴染んだ。
大幅な通貨安で、機械部品などの輸出産業は一見、好調だが、素材調達でじわじわ首が絞まる。ラクリマリス王国の湖上封鎖の影響で、食料品の輸入価格は暴騰。庶民の生活は苦しくなる一方だ。
アーテル中央銀行は、為替相場に積極介入を繰り返す。だが、必死の抵抗も虚しく、世界最大の格付け会社は、アーテル国債の評価を大幅に下げ、CCC-を付けた。
国債の最短の償還期限は二年だ。残り一年半余りの間にこの戦争で何らかの成果を出すか、終戦に漕ぎつけ、経済を立て直さなければ、債務不履行に陥るだろう。
経済破綻すれば、バルバツム連邦などが支援しない限り、戦争どころではなくなる。
「或いは、利息を払う為に国債を乱発するか」
「買う人が居ますかねぇ?」
ラクエウス議員が、アーテル政府が採るであろう場当たり処理を口にすると、両輪の軸党のアサコール党首は皮肉な笑みを浮かべた。
アサコール党首の同志が、大規模な相場介入を仕掛けた。
彼らはネモラリス共和国ではなく、インターネットを介してバルバツム連邦などに開設した口座で国際取引する。現地に住所を置く別の同志が名義を貸し、実際の運用は、アミトスチグマ王国やラクリマリス王国、更にはアーテル領ランテルナ島に散らばる同志だ。
ほんの数カ月で食料品が暴騰し、貧困層を中心にアーテル領内では値下げを要求するデモや暴動が頻発した。
アーテル政府は報道規制を敷き、デモや暴動が他地域に飛び火せぬよう躍起になるが、デモ参加者の撮影した動画がネットで拡散し、取締りが追い付かない。
ネモラリス共和国のように物々交換中心の経済なら、国内に現物があれば、国民はここまで困窮しない。
だが、アーテルをはじめ、科学文明国では実際の需給バランスだけでなく、投機目的の売買でも相場が影響を受け、現実の物価に反映される。
アーテルの取引所は「神の見えざる手」が働くことを期待し、利益を度外視した大規模な取引の想定がない。成す術もなく、デタラメな投機を行う外国人投資家たちに相場を蹂躙された。
八月半ばの一際大きな取引で、相場の乱調が激しさを増した。アーテル中央銀行の介入や、政府の報道規制では誤魔化しきれなくなり、アミトスチグマに本社を置く湖南経済新聞が、正確な商況を報じた。
「まぁ、その内、規制する法律を作るでしょうけど、成立には時間が掛かりますからね」
デモの動画を見ながら、アサコール党首がほくそ笑んだ。
端末の画面では、プラカードを掲げて叫ぶ人の群が大通りを埋め尽くす。
「不当取引をやめろ!」
「小麦を適正価格に!」
「売り惜しみするな!」
「子供たちにパンを!」
デモ隊が警官隊と衝突する。最初からそのつもりで来たのか、群衆から火炎瓶が飛んだ。通り沿いの商店は、プラカードでショーウィンドウを割られ、雪崩れ込んだ群衆に商品を略奪される。路上駐車が炎上し、警官隊が投げた催涙弾にデモ隊が咳込む。
人々の怒号と悲鳴で、平和だった街が戦場の様相を呈する。
撮影者が走り出し、画面が大きく揺れた。
「何も、武器を執って直接、戦場に出るだけが戦いではありません」
「……経済戦争と言う奴かね?」
頷いたアサコール党首の眼に厳しい光が宿る。ラクエウス議員は、背筋が凍る思いでその眼を見詰めた。
……インターネットとやらは、実に恐ろしいものだな。
「我が国の街は、アーテル軍の無人機に焼かれ、無辜の民が大勢、理不尽に生命を奪われました。生き残った罹災者も、大部分が難民化し、苦しい生活を強いられています」
端末の小さな画面の中で、警官隊がアーテル共和国の一般市民に発砲した。
「暴動、略奪、貧困による飢餓、病死、自殺……アーテル人にも、相応の痛みを与えねばなりません」
アサコール党首の言葉は、ただのハッタリではない。敵国に現実の混乱と死をもたらした。
経済的な攻撃を仕掛ける為の軍資金を、どこでどのように調達したのか。
ラクエウス議員は漠然と思い当たったが、口に出して確認するのはやめた。半世紀の内乱中も散々行われてきたことだ。
アサコール党首が端末を操作し、画面が別の動画に変わった。野外劇場のような場所だ。大勢の若者が詰めかける。
「次は、アーテルの若者の心に揺さぶりを掛けます」
「若者の心? この動画に映っている者たちかね?」
「彼らは対象者のほんの一握りに過ぎません。アーテルで普通に暮らす……もっと多くの若者です」
舞台には、丈の短い衣裳を纏った六人の少女が居た。一人が一歩前に出て口上を述べる。
「みんなー! 今日は私たちの最後のコンサートに来てくれて、ありがとー!」
「彼女らは、アーテルの若者から絶大な支持を集める歌手です」
「この娘らが……?」
十代半ばから後半と言ったところか。年端も行かぬ少女たちの何が彼らを魅了するのか。ラクエウス議員にはわからなかった。
「先日、メンバーの一人が魔物に襲われました。同志が接触し、七人中、四人の引き抜きに成功しましたよ」
「何と……」
「彼女らは明日、ここに到着する予定です」
タブレット端末の小さな画面に客席を巻き込む騒動の様子が映し出された。
アサコール党首が身体ごと向き直り、改まった口調で言う。
「ラクエウス先生、彼女らに歌のレッスンをして下さいませんか?」
「ハルパトーラとしてかね?」
「彼女らには、通信機器を一切触らせない予定です。このままで構わないでしょう」
「そうかね」
どのような手段で、アーテル人の少女らを丸めこんだのか。齢九十を越えるラクエウス議員には、想像もつかなかった。年齢こそ、祖父と曾孫程に離れているが、信仰が同じなら、比較的早く馴染めそうな気がする。
「……何の歌を教えればいいのだね?」
ラクエウス議員は快諾した。
☆アーテル共和国の小麦相場の変動グラフ……「0424.旧知との再会」参照
☆半世紀の内乱中も散々行われてきたこと……「0042.今後の作戦に」参照
☆最後のコンサート……「0430.大混乱の動画」参照
☆ハルパトーラ……「0306.止まらぬ情報」参照




