0406.工場の向こう
「まぁ……でも、そんな話は全然」
そんな騒動は、団地地区にあるクフシーンカの仕立屋に全く届かなかった。
弟のラクエウス議員の支持者を通じ、大抵のことは当日中にクフシーンカに知らされる。東部バラック地帯の住人が、そんな大勢で連れ立って団地地区を歩いたなら、目立ってすぐに噂が広がりそうなものだ。
司祭はお茶に視線を落とした。
「いえ、それが……ウィオラの隣人が急に、やっぱりいい、と帰宅してしまったのですよ」
「あら、どうしたの? やっぱり、何か疚しいことでも?」
「わかりません。ですが、流石にウィオラをその隣の部屋へ帰らせる訳にはゆきませんからね。こちらでお預かりしているのですよ」
「そうだったんですの」
クフシーンカは、何とも言えない気持ちで頭を振った。
ウィオラの事件の時には、通り一遍の記録だけ取って後の捜査は何もしてくれなかった。赤子殺しの犯人も、まだわからない。
リストヴァー自治区の東部バラック地帯では、よくある事件だからだ。赤子殺しはともかく、ウィオラ自身については、事件か、隣人が言うように商売か、警察には判断がつかない。
行方不明だったウィオラが戻っても、本人に事件当時の事情聴取すらしないのは流石にどうかと思うが、クフシーンカ自身には、警察に介入できるだけの権力がなかった。
「まぁ、でも、五体満足で戻って来てよかったわ」
「ですが、昨日から何も食べてくれないのですよ」
「まぁ……」
司祭の重い声にクフシーンカは言葉を失った。
……お菓子だけでも、食べてくれればいいのだけれど。
工員に切りつけ、事情を聞かれた時に「赤ちゃんの仇」だと言った。ウィオラは警察の対応をどんな思いで見ただろう。
警察は、赤子殺しの現場となったウィオラの部屋の遺留物を採取済みだ。
つまり、隣人を調べれば、事件との関係の有無がわかる。隣人もその可能性に気付き、言を翻して自宅に帰ったのではないか。
推測の域を出ず、司祭もその件にはそれ以上、触れなかった。
二人は気を取り直して、東教区の罹災者救済事業について話を詰めに掛かる。
本来なら、区長らがもっと動くべき案件だが、区長を含め、西教区……団地地区と農村地区の有力者たちは、次の選挙を見据えての活動に忙しく、ロクに投票所へ来ない東教区の住人など眼中にないらしい。
クフシーンカの弟のラクエウス議員は、九十歳を越える高齢だ。姉弟揃って健康だが、いつ、寿命が尽きてもおかしくない。
十数年程前から水面下で秘かに動きはあった。
リストヴァー自治区の区長、酒屋の店主、鉄工所の工場長が有力だと目され、既に派閥が形成される。自治区を襲った大火からの復興の青写真も、彼ら主導で話が進んだ。ラクエウス議員が、首都クレーヴェルの議員宿舎から姿を消した、との報道後は、表立って動くようになった。
ラクエウスの支持者の中からも、彼の地盤を引き継ぐ意志を見せる者が二、三人居た。彼らが、積極的に救済事業に力を貸してくれるのは、これからは東地区も大きな層になり得ると見込んだからだろう。
「司祭様! 店長さん! 大変ですッ!」
老いた尼僧が、血相を変えて応接室に飛び込んだ。ノックもせずに駆け込み、応接室を見回す。
「ここにも居ないんですね?」
「誰がですか?」
司祭がイヤな予感に表情を険しくして聞いた。尼僧はひとつ息を吸い、背筋を伸ばして答える。
「……ウィオラちゃんです」
「何ですってッ?」
尼僧は、息切れする胸を押さえて捲し立てる。
「やっとお菓子をひとつだけ食べてくれて、香草茶が欲しいって言われたんで、お茶の用意をしてお部屋に戻ったら、居なくなってたんです!」
「礼拝堂のみなさんは何と?」
「誰も見てないって言うんです。きっと勝手口から出て行ったんじゃないかと」
尼僧が、狼狽に上ずる声で早口に言った。
司祭とクフシーンカは同時に席を立ち、尼僧と手分けして、教会内を改めて捜した。支持者たちにも声を掛け、教会周辺を探してもらう。
二十分ばかり経って、支持者の一人が駆け戻った。工場で騒ぎがあったらしい。
クフシーンカと司祭は、菓子屋のワゴン車に乗せてもらい、支持者が言った工場へ急いだ。菓子屋の車が、人集りのできた工場前で停まる。
「ここですか?」
司祭が車を降りながら聞く。
「あっ! 司祭様……!」
「女の子が、工場の岸壁から身投げしたんスよ!」
野次馬の一人が、工場の北側を指差して叫ぶ。
「今、どんな状況ですか?」
「すまねぇ。幾ら司祭様でも、部外者を勝手に通すワケにゃいかねぇから」
閉じた門扉の向こうから、守衛が申し訳なさそうに言う。トラックを通す為に門扉を解放した隙に部外者のウィオラに侵入され、騒ぎになったのだ。今更だとは思うが、そう言われては仕方がない。
「工場の北側なんですね?」
司祭が衣の裾を翻し、工場の長い塀に沿って走った。数人の野次馬も後を追い、工場と工場の間を抜ける細道を目指す。
老いたクフシーンカは気を揉んで、司祭の後ろ姿を見送った。菓子屋の亭主がエンジンを掛け直し、車を北へ向ける。
リストヴァー自治区はキルクルス教徒の為に作られた。魔道機船の港はなく、湖岸は全て工場の敷地だ。
細道とも呼べない工場の塀と塀の隙間に次々と人が入る。
身を横にしてラキュス湖畔へ向かう姿を見送る人々は、期待と不安で何とも言えない顔で隙間の奥を覗く。クフシーンカと菓子屋の夫婦も、同じ表情で司祭の行く先を見守った。
祈る思いで待つ時間は長い。曇天の下を行く風がぬるく吹き抜け、人々の汗を乾かした。
「おーい!」
男性の声に人々が色めき立つ。塀の隙間を取り巻く人垣がゆるみ、蟹のように出てきた男性を迎えた。
「どうだ? 間に合ったのか?」
「ギリギリなんとかなった! ちょっと通してくれ!」
どっと沸く人垣をかき分け、男性は菓子屋のワゴン車に近付く。運転席の窓を叩き、車を工場の門へ回すよう、叫んだ。
塀の隙間から次々戻って来る者たちが、湖岸の救出劇を口々に語る。菓子屋の主人は、最初に出てきた男性に親指を立ててみせ、車を動かした。
戻ってきた車を見て、警備員と工員が門を開ける。
「怪我してるから、早く病院、連れてってやってくれ!」
工員の声に車内の空気が凍りつく。
何とか気を取り直した菓子屋の主人が、工員の誘導で敷地内に車を侵入させた。配管が複雑に絡む建屋の間を抜け、岸に近付く。
工場敷地の東端は高い塀に囲まれ、湖が見えなかった。ペンキで白く塗られた塀には、聖印と聖者キルクルスの祈りの言葉が青で書いてある。
「おぉい! 車、来たぞーッ!」
先導の工員が叫ぶ。救助に向かった住人と工員の輪が崩れた。輪の中心に横たわる少女ウィオラと、その細い足に添え木をあてる司祭、応急処置を手伝う工員が見えた。
菓子屋の夫婦が車を降りる。後部席のクフシーンカは、教会で受け取った完成品の袋が詰まった段ボール箱を降ろした。
ウィオラの剥き出しの手足は、無数の小さな歯型が血を滲ませる。意識はあるようだ。折れた足は痛む筈だが、ぼんやりして、応急処置に痛がる様子がない。
「これ、返さなくていいんで」
駆け寄った工員が、ウィオラを毛布で包んで抱き上げた。クフシーンカは、後部席の扉を全開にして二人を迎え入れる。菓子屋のワゴン車は荷台が既にいっぱいだ。後部席の荷物は置いて行かざるを得ない。
「一体、なんの騒ぎだ?」
工場長が騒ぎを聞きつけ、事務所から出てきた。司祭が状況をざっと説明する。菓子屋の主人が申し訳なさそうに言った。
「すみません。荷物、後で取りに来ますんで、預かっててもらえませんか?」
「とんだ御迷惑ですが、私からもお願いします」
クフシーンカも、菓子屋と揃って頭を提げて言い添える。クフシーンカの顔見知りの工場長は快諾し、ウィオラを抱き上げた工員に指示を出した。
「お前、今日はもういいから、そのコの病院付き添って、明日、報告してくれ」
「はいッ!」
ウィオラを後部席に乗せた工員が、工場長の命令に瞳を輝かせて応じる。
クフシーンカが治療費を持つと申し出ると、ワゴン車は団地地区の聖星道リストヴァー病院を目指して走り出した。
☆ウィオラの事件……「0373.行方不明の娘」参照
☆大火からの復興の青写真……「0156.復興の青写真」参照
☆ラクエウス議員が、首都クレーヴェルの議員宿舎から姿を消した……「0277.深夜の脱出行」「440.経済的な攻撃」参照
☆聖星道リストヴァー病院……「014.悲壮な突撃令」参照




